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香春神社周辺 其の二

香春岳は一の岳、二の岳、三の岳の三連で構成されている。この一の岳のふもとに香春神社がある。

延喜式神名帳に記載されている豊前国の神社は六座で、そのうちの三座は香春神社にある。(残りは宇佐神宮内)、格式高い神社である。

豊前国の一宮は八幡宮の総本社である宇佐八幡宮だが、香春神社を一宮とする資料もある。

香春神社の三座とは、一の岳の「辛国息長大姫大目カラクニオキナガオオヒメオオメ神社」、二の岳の「忍骨オシホネ神社」、三の岳の「豊比咩トヨヒメ神社」だ。

和銅2年(709年)に山頂の三社を現在地に移設した。その後、辛国息長大姫大目神社と忍骨神社に正一位の神階が与えられたのは、承和10年(843年)で、これは奈良の大神神社(859年)、石上神宮(868年)、大和神社(897年)が正一位になった年より早い。

移設された年は日本中の地名改定の詔が発布されたころで、日本の統治機構、宗教、歴史、文化の原型が作られた重要な時代「天武~持統」のすぐ後の時代である。

山の頂に鎮座していた神々は地上に移された。

さらに今では一の岳山頂は跡形もなく削り取られ、半分の高さになっている。

其の一に小さな画像を付けたが、昭和10年頃の一の岳は山頂が天を衝いている。

辛国息長大姫大目カラクニオキナガオオヒメオオメ」とはカラクニ=韓国 つまり朝鮮半島の神なのではないかと私でも想像できるのだが、社前には「辛国息長大姫大目命は神代に唐土の経営に渡らせ給比、崇神天皇の御代に帰座せられ、豊前国鷹羽郡鹿原郷の第一の岳に鎮まり給ひ」とあるので、今でいう朝鮮半島からの帰国子女ということだろうか。

崇神天皇は御肇國天皇ハツクニシラススメラミコトつまり「初めて国を治めた天皇」という名が付いている。

最初の天皇である神武天皇(『日本書紀』では始馭天下之天皇ハツクニシラススメラミコト)と同じ名前である。神武天皇の即位年は、『日本書紀』の歴代天皇在位年数を元に逆算すると西暦紀元前660年に相当する。宮内庁の天皇系図でも初代天皇とされ 前660年~前585年となっている。

第10代崇神天皇 (前97年~前30年)、実在が確実なもっとも古い天皇は第26代継体天皇(507~530)。

辛国息長大姫大目だが、崇神天皇の頃に帰座せられ祀られている。帰座とは元の座に戻ることだから、崇神天皇より前の時代に唐土へ渡り戻ってきた女神ということになる。ここで 阿加流比売神(あかるひめのかみ)の話が浮かんでくるのだが、別の項で取り上げたい。

朝鮮半島に渡った縄文人の子孫が数千年を経て日本へ戻り弥生人となったという話を聞いた。辛国息長大姫大目もそうなのかもしれない。

700年ほどのちの元明天皇の時代に山頂から移された。理由はまだ調査中。

先に出てきた豊前国鷹羽郡鹿原郷と言う地名も探ってみたい。
英彦山神社の祭神も、香春岳二の岳に祀られていた忍骨尊オシホネノミコトで、こちらは天照大神の子である。そして、英彦山神社と香春神社の紋はどちらも二枚の鷹の羽を「X」の形に重ね合わせたものだ。これは「鷹羽郡」という地名に関係があるのだろう。

宮内庁 天皇系図 (年代は在位期間)

神武天皇 崇神天皇 (日本武尊) 仲哀天皇 推古天皇
初代 第10代 第14代 第33代
前660~585 前97~30 192~200 592~628

補足01 弥生人
在来系弥生人とは=以前より日本列島に定住していた縄文人の事。
渡来系弥生人=ほとんどは昔朝鮮半島に渡った縄文人(つまり日本人)。
と考える人もいる

補足02 伊勢神宮と大和神社オオヤマトジンジャ
『日本書紀』の崇神天皇6年の条に崇神天皇の時代 「疫病を鎮めるべく、従来宮中に祀られていた天照大神と倭大国魂神やまとのおおくにたまのかみ天原あまのはらを治め、代々の天皇は葦原中国あしはらなかつくに(日本の別名)の諸神を治め、倭大国魂神は地主の神(地方神)を治めることになっていたが、二神が同じ宮中に並べて祀られるのは神霊が強すぎる。そのため疫病がはやり国が治まらないのではないか。よって別々に祀ろうということになった。

補足03 阿加流比売神アカルヒメノカミのはなし
『古事記』では応神天皇記に次の記述がある。*応神天皇は崇神天皇の5代後

昔、新羅の阿具奴摩アグヌマ(阿具沼)という沼で女が昼寝をしていると、その陰部に日の光が虹のようになって当たった。すると女はたちまち娠んで、赤い玉を産んだ。その様子を見ていた男は乞い願ってその玉を貰い受け、肌身離さず持ち歩いていた。ある日、男が牛で食べ物を山に運んでいる途中、天之日矛アメノヒボコと出会った。天之日矛は、男が牛を殺して食べるつもりだと勘違いして捕えて牢獄に入れようとした。男が釈明をしても天之日矛は許さなかったので、男はいつも持ち歩いていた赤い玉を差し出して、ようやく許してもらえた。天之日矛がその玉を持ち帰って床に置くと、玉は美しい娘になった。

天之日矛は娘を正妻とし、娘は毎日美味しい料理を出していた。しかし、ある日奢り高ぶった天之日矛が妻を罵ったので、親の国に帰ると言って小舟に乗って難波の津に逃げてきた。その娘は、難波の比売碁曾の社に鎮まる阿加流比売神であるという。

『日本書紀』では垂仁天皇紀に記述がある。*垂仁天皇は崇神天皇の次の代

都怒我阿羅斯等ツヌガアラシトは自分の牛に荷物を背負わせて田舎へ行ったが、牛が急にいなくなってしまった。足跡を追って村の中に入ると、その村の役人が、「この荷の内容からすると、この牛の持ち主はこの牛を食べようとしているのだろう」と言って食べてしまったという。都怒我阿羅斯等は牛の代償として、その村で神として祀られている白い石を譲り受けた。石を持ち帰って寝床に置くと、石は美しい娘になった。

都怒我阿羅斯等が喜んで娘と性交しようとしたが、目を離したすきに娘はいなくなってしまった。都怒我阿羅斯等の妻によれば、娘は東の方へ行ったという。娘は難波に至って比売語曾社ヒメコソシャの神となり、また、豊国の国前郡へ至って比売語曾社の神となり、二箇所で祀られているという。

*『日本書紀』第12代景行天皇12年(82)の記事に、豊前国の名がみえる。『豊後風土記』には、はじめ豊後国と合して豊国とよばれていたが、文武天皇(697~707)のとき、豊前・豊後2国に分離したとある。

『摂津国風土記』逸文にも阿加流比売神と思われる神についての記述がある。

応神天皇の時代、新羅にいた女神が夫から逃れて筑紫国の「伊波比イワイの比売島」に住んでいた。しかし、ここにいてはすぐに夫に見つかるだろうとその島を離れ、難波の島に至り、前に住んでいた島の名前をとって「比売島」と名附けた。

「豊国の比売語曾社」は、大分県姫島の比売碁曾社である。『豊前国風土記』逸文にも、新羅国の神が来て河原に住んだので鹿春神というとある。

補足04 鹿春郷

豊前国風土記(逸文 宇佐宮託宣集)
豊前國風土記曰 田河郡 鹿春郷在郡東北 此郷之中有河 年魚在之
其源従郡東北杉坂山出 直指正西流下 湊會眞漏川焉
此河瀬清浄 因號清河原村 今謂鹿春郷訛也
昔者 新羅國神 自度到來 住此河原 便即 名曰鹿春神
又 郷北有峯 頂有沼周卅六歩許 黄楊樹生 兼有龍骨
第二峯有銅并黄楊龍骨等
第三峯有龍骨。

豊前國風土記にいわく。田河ノ郡 河原の郷郡の東北にあり 此の郷の中に河あり 鮎あり。
その源は、郡の東北のかた、杉坂山より出でて、直ぐに、ま西を指して流れ下りて、眞漏川につどい会えり。
この河の瀬、清し。因りて清河原の村となづけき。今、鹿春の郷というは、よこなまれるなり。
昔、新羅の國の神、自ら渡り来たりて、この河原に住みき。すなわち、名づけて鹿春の神という。
又、郷の北に峯あり。頂きに沼あり。めぐり三十六歩ばかりなり。黄楊(つげ)の樹 生い、また、龍骨あり。
第二峯(つぎの峯)には、銅ならびに黄楊・龍骨などあり。
第三峯(その次の峯)には龍骨有り。

*この逸文について、ある人の見解 「新羅國神は、以下の理由で倭人です。」

逸文の原漢文「昔者 新羅國神 自度到來 住此河原 便即 名曰鹿春神」を昔を「むかし」と読まずに「昔氏」と読む。昔(鵲)氏は、新羅の国王4代の昔脱解王(sok dalhe)が初代の昔氏系新羅王であり、駕洛國記にも記載がある。彼は、倭人との説がある。自度と子道は、韓音ではjadoで同音異字である。子道とは、「子の道として父母に仕える」ことである。と言うことは、jadoは、同音異字の「自度と子道」を同時に使用可能にした用語の選択で、新羅の國の神が、自ら渡って来た理由をも説明している。

「昔氏は、新羅国王なり、子道として父母に仕えるために自ら渡り帰り来たる。王は、原(始め)より此に住む、黄家の血筋なり。黄家は、即位を治める、名付けて曰く、鹿春の神と」。ここで、鹿とは帝位のことで、春の「わら」に「和羅=和の絹を着た皇族」を当てると「鹿和羅」となり、「鹿春」の本当の意味は、「和羅の帝」の意味であることを明らかにしている。昔氏は、歴代56代の新羅王の内、4代、9代、10代、11代、12代、14代、15代、及び16代の合計8人の王を輩出している。従って、新羅の神が自らわざわざ香春に来て住んだのではなく、香春出身の昔氏が新羅の王となって、自ら帰郷して親孝行をした事を述べており、初代の昔脱解sok dalheについては、三国史記や三国遺事に倭人説があり、それを裏付ける逸文の記述である。

私見:私は「昔」はやはり「むかし」だと思う。別の逸文にも「昔者」という表記がある。が、脱解尼師今ダッカイニシキンについてはかなり興味がある。補足05をご覧ください。

補足05 脱解尼師今は丹波から韓国へ渡り王になった

脱解尼師今ダッカイニシキン(タルヘ イサコミ)は、新羅の第4代の王(在位:57年 – 80年)で、姓はソク、名は脱解タルヘ

脱解が船で渡来した人物であることを示す挿話などと併せて、出生地を日本列島内に所在すると見る向きが多く、丹波国、但馬国、肥後国玉名郡、周防国佐波郡などに比定する説があり、上垣外憲一は、神話である以上、他系統の伝承が混ざっているだろうと述べた上で、脱解は丹波国で玉作りをしていた王で、交易ルートを経て新羅にたどり着いたというのが脱解神話の骨子であるとし、神話の詳細な虚実は措くとしても、昔氏は倭国と交易していた氏族だと推測できるとした。

このほかに 『三国遺事』の龍城国をアイヌの部族国家とするアイヌ系説もある

補足06 いつから大陸へ朝貢していたのか 帥升スイショウ

『後漢書』「巻五」の「安帝紀」(「孝安帝紀第五」)及び「巻八十五」の「東夷伝」(「列伝第七十五」)*帥升は日本史上、外国史書に初めて名を残した人物

安帝永初元年 冬十月倭國遣使奉獻(本紀)安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見(列伝)

安帝の永初元年(107年)冬十月、倭国が使いを遣わして貢献した。(本紀)安帝の永初元年、倭国王帥升等が生口160人を献じ、謁見を請うた。(列伝)

補足07 許黄玉 紀元前後あらゆる国の人々が往来していた

許 黄玉キョコウギョク(허황옥、32年 – 189年)は、金官伽倻キンカンカヤの始祖首露王の妃。金官伽倻の第2代の王居登王キョトウオウを生む。

許黄玉はインドのサータヴァーハナ朝の王女で、インドから船に乗って48年に伽耶に渡来し、首露王と出会い、その時にインドから持って来た石塔と鉄物を奉納した。許氏は首露王との間に10人の息子をもうけたが、そのうち2人に許姓を与え、それが金海許氏の起源とされる。

2004年の学会発表によると、許氏の「インド渡来説」には遺伝学的根拠がある。金海にある古墳の、許氏の子孫と推定される遺骨を分析した結果、ミトコンドリアDNAは(韓民族のルーツである)モンゴル北方系ではなくインド南方系の特徴を備えていた。

2012年11月22日

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