二の岳に祀られていた 忍骨尊は天忍骨尊、正勝吾勝勝速日天忍穂耳命と言われる神で、天照大神と須佐之男命との誓約の際に勾玉から生まれた神。角川文庫の古事記では「皇室の御祖先と傳える」とある。
社前には「第二座忍骨命は、天津日大御神の御子にて、其の荒魂は第二の岳に現示せらる」とある。
修験道で有名な英彦山神宮も天忍骨尊(あめのおしほねのみこと)が祭神だ。
正勝吾勝マサカツアカツというのは「正しく勝った、私が勝った」という意味らしい。スサノオの勝利宣言だそうだ。
古事記ではアメノオシホネノミコトは母であるアマテラスオオミカミから地上を治めるよう命じられ「天の浮橋」までは行ったが、「地上は物騒だ」と戻ってきてしまう。
その後、スサノオの六世の孫、大国主神がアマテラスから国譲りを要請され、対話と武力を交えた末、結局オオクニヌシノカミは幽冥界の主、幽事の主宰者となり、出雲大社にお隠れになった。(国譲り)
再びアメノオシホネノミコトに地上を治めるように命が下ったが、アメノオシホネノミコトはその間に生まれた息子の瓊瓊杵尊に行かせるようにと進言し、ニニギノミコトが天降ることになる(天孫降臨)
ニニギノミコトはアメノオシホネノミコトと高皇産霊神の娘である栲幡千千姫命との間の子であり、タカミムスビがこの孫を葦原中国の主にしようと画策したことのようだ。
この「吾勝」について記憶に残っていることがある。
家族や友人らとよく利用している「源じいの森」という施設がある。温泉、キャンプ場、宿泊施設、研修上などの施設がある。この施設は赤村が運営している。その赤村のホームページで村の名前の由来について次のような記述があった。
「伝えによると、吾勝野と呼んでいましたが、阿柯と津野と称するようになり、その後、清和天皇の「光明赫々・・・」という言葉から赤の字を用いたといわれ、歴史上ゆかりの多い村として史跡や伝説が数多く残されています。」さらに調べると
吾勝尊(忍骨尊のこと)が岩石山に降臨し、この山を吾勝山と呼び、その東側の麓を吾勝野と呼んだ。
その後、景行天皇が熊襲征伐の途中この山に登った際、豊かな土地であるが南北に細長いので、二つの村に分けたがよいと仰せられ、北を「あか」、南を「つの」に分けた。「あか」は我鹿または阿柯になり、「つの」は津野(添田町津野)になった。
磐井の乱後の535年、大和王権の直轄地の屯倉が九州の8個所に置かれ、大和王権の力が強化され、そのひとつが我鹿屯倉だった。
香春神社周辺を調べるつもりだったがそれでは済まないようになってきた。
話は卑弥呼や邪馬台国にまで及ぶ。
補足 01 射手引神社
「筑紫鎌の南端、豊前田川に接する地を山田の庄といふ。庄の東北に山あり帝王山と云ふ。斯く云ふ所以は、昔神武天皇東征の時、豊前宇佐島より阿柯小重に出でて天祖吾勝尊を兄弟山の中腹に祭りて、西方に国を覓め給はんと出御し給ふ時、この山路を巡幸し給ふ故に此の名あるなり。神武山」
ここで云う筑紫鎌は現嘉麻、阿柯小重は我鹿(赤村)の旧名であると思われる。
田川郡に入り、田川の地をしろし召した天皇は、駒主命を道案内として、帝王越を経て嘉穂郡の地に入らせられ、夢に手力雄命の神霊を受け給ひ、猪位金村の一端、兄弟山に登って天祖の御霊を祭られたが、その神跡を帝王山といひ伝へている。天皇はここで、嘉麻(鎌)の天地をみそなはし、進んで小野谷の里(宮野村)に成らせられ、ここの岩山に高木の神を祭られた。
赤村は吾勝野とも呼ばれその昔、天忍穂耳命がタカミムスビの娘と結婚し、この地で、田川郡一帯を統治していた。その跡地を狭野命(神武天皇の幼名)は訪問している。神武東征の際、比較的簡単に豪族たちの協力が得られたかもしれない。
2012年11月27日