香春神社の歴史を簡単にまとめてみる。
① 新羅の神(豊比咩命)が日置絢子によって、三ノ岳ふもとの阿曽隈に祀られる。
香春神社解文(弘安10年1287成立)
「日置絢子が採銅所内にある阿曽隈を崇拝し奉る。降って元明天皇御宇・和銅2年 (709) 、『新宮』に勧請し奉る。是香春也。本新両社と号す」
② 709年 豊比咩命神社の本社として古宮八幡神社が三ノ岳ふもとに創祀される。阿曽隈社を元宮とする。
古宮八幡神社累縁起
「古宮八幡神社は平安時代にできた「延喜式」の「神名」に挙げられている豊比咩命神社の本社でありその最初の鎮座地は香春三ノ岳の麓、阿曽隈という所である。
創祀は元明天皇・和銅2年(709)今より実に壱千弐百八拾余年の古社である。」
③ 709年 第一岳麓に香春神社社殿が建立され、息長大姫尊、忍骨命、豊比咩命の三柱を合祀。
香春神社縁起(成立年代不明)
「元明天皇・和銅2年(709)第一岳麓に社殿建立。三社の神(現祭神と同じ)を併せ祀り奉り『新宮』という」なお、「息長大姫尊は神代に唐国(韓国・新羅)経営に渡らせ給い、崇神天皇の御宇、本郷に帰り給い第一岳に鎮まり給う。忍骨命は天津日大御神(アマテラス)の御子で、荒魂は南山に和魂は第二岳に鎮まり給う。豊比咩命は第三岳に鎮まり給う。三神3峰に鎮座し“香春三所大明神”と崇め奉る」
香春神社古縁起(太宰管内志所載、成立年代不明)
「第一殿は大目命、第二殿は忍骨命、第三殿は空殿なり」
第三殿空殿の理由として、
「第三殿は豊比咩命の御殿だが、豊比咩命は祭の時のみ新宮に留まり、祭が終わると採銅所に帰られるから“空殿”という」との注記あり。
いろいろな疑問
(1) 「阿曽隈」とは?
「日置絢子」とは高句麗系渡来人「日置氏」だろうか?
「・・・また日置一族は砂鉄の生産地に多く分布し(肥後菊池川,出雲国飯石郡),さらに土器生産にも当たったと考えられ,また日置氏は土師氏系とされ菅原朝臣を賜姓されている」(《三代実録》)。
香春に定住したのは百済を経由して渡来した弓月君(秦の始皇帝3世直系)と120県の人民「秦氏」だと思っていた。
(2) 古宮八幡神社累縁起と香春神社縁起では創祀の年が同じ?
(3) 豊比咩命 と 辛国息長大姫大目命 は?
香春神社の社前には「辛国息長大姫大目命は神代に唐土の経営に渡らせ給比、崇神天皇の御代に帰座せられ、豊前国鷹羽郡鹿原郷の第一の岳に鎮まり給ひ」とある。
“息長”とは息長帯比売(神功皇后)のことか?
仲哀天皇の九州熊襲征伐に随伴し、仲哀天皇が崩御後に熊襲征伐を達成。新羅、百済、高麗を服属させたといわれている神功皇后のことだろうか。
「崇神天皇の御代」とは3世紀後半。
神功皇后の息子で実在性の高い天皇と思われる応神天皇の在位は4世紀後半から5世紀にかけて。
神功皇后は実在性が疑われている。 辛国息長大姫大目命 =神功皇后?
気になるのは神功皇后(息長帯比売)の母方をたどると新羅の王子・日鉾(天之日矛)に連なるとの伝承があること。