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しまじろうの日常 2017/01/01

 しまじろうは野良猫で飼い主は居ない。
 人々から可愛がられていたが、ある日、自慢の長い尻尾に傷を負ってしまう。
 だんだんと傷は悪化していく。
 病院へ運ばれ、その自慢の長い尻尾を切断することで一命をとりとめる。
 しばらくは野良の生活を続けていたが、冬の寒さに凍えているのを見かねた優しいご婦人が、家に連れ帰り世話をしてくださることとなった。
 今は、もと野良猫の誇りを胸に、短くなった尻尾と幸せに暮らしている。

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狛犬のこと ついでに狛猫 20161209

 職場の駐車場が神社の境内なので、ほとんど毎日神社へ行きます。神社の本殿の前に、石造りの動物の像が置かれています。狛犬です。

 左右の狛犬は形が少し違います。本殿に向かって右側の像は「獅子(ライオン)」です。「獅子」は少し口を開けています。『阿(あ)』という音を発しています。

 左側の像は「狛犬」です。「犬」ではなく「狛犬」という想像上の動物です。その証拠に頭のてっぺんに角が生えています。私が毎日車を停める神社の狛犬には角がありません。ですから、正確には「左右に獅子」ということになります。「狛犬」は口を閉じています。『吽(うん、ん)』という音を発しています。平安時代の「延喜式」には「左衛門府は元旦や天皇即位の日には内裏の裏の会昌門という門の左側に兕(じ)の像を置くように」と書かれているそうです。「兕(じ)」は水牛のような一角獣で鎧の材料になるほどの硬皮を持っているという説もあり、私の想像では「サイ」のような気がします。

 『阿吽(あうん)』とはサンスクリット語で、仏教の言葉です。

 『阿』は口を開いて最初に出す音『あ』で、『吽』は口を閉じるときに出る音『うん』です。最初と最後、つまり、宇宙の始まりと終わりを表しています。人間の一生かもしれません。悠久の時を一言で表してしまうわけです。終わりが始まりということかもしれません。ウロボロスのヘビが頭に浮かびます。

 神社の狛犬や、寺院の仁王像など、なぜ阿吽なのかはよくわかっていないようですが、対になるもの、守護するものが、阿吽の形になっているようです。

 日本の五十音も「あ」で始まり「ん」で終わっていますが、このことについては別に考えをまとめたいと思います。ちょっと長くなりそうなので。

 なぜ右の獅子が狛犬にかわったのでしょう?

 王を守る獅子の起源はエジプトのスフィンクスまで遡るようです。スフィンクスの頃から中国の唐時代まで「獅子」だったものが、仏教とともに日本に伝わり、何故かしら右は「獅子」、左は「狛犬」となったようです。何故右の獅子が狛犬にかわったのでしょう?さらに不思議なことに、時が経ち、やがて右の狛犬は角のない狛犬に姿を変え、獅子に戻ってしまいました。獅子に戻っても、名前は狛犬のままです。このような狛犬の変遷については、狛犬研究家や狛犬愛好家、神社研究者の書物などで調べるしかないようです。

 最後に京丹後市峰山町の金刀比羅神社の境内社 木島神社・猿田彦神社の狛猫をご紹介します。
 狛猫は珍しいそうです。

  ムカデのこと 2020/05/05 ☛

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香春神社周辺 その六

香春神社と古宮八幡宮

『香春神社』は延喜式神名帳(927成立)に、
 「豊前国田川郡三座 辛国息長大姫大目カラクニオキナガオオヒメオオメ命神社、 忍骨オシホ命神社、 豊比咩トヨヒメ命神社」とある式内社。一ノ岳の麓に鎮座。
 香春神社古縁起には「第三殿は豊比咩命の御殿だが、豊比咩命は祭の時のみ新宮に留まり、祭が終わると採銅所に帰られるから“空殿”という」と注記がある。

『古宮八幡宮』(元宮八幡ともいう。式内社ではない)は三の岳の麓に鎮座する。
 畧縁起には「最初の鎮座地は香春三ノ岳の麓、阿曽隈という所である」とある。
 また、「創祀は和銅2年(709年)である」とある。 

古宮八幡宮 鳥居
古宮八幡宮 累縁起
古宮八幡宮 社殿紋は英彦山神宮と同じ鷹羽紋

*延喜式神名帳(927年)に記載された神社、および現代におけるその論社を「延喜式の内に記載された神社」の意味で延喜式内社、または単に式内社しきないしゃ式社しきしゃという。

・香春神社縁起(成立年代不明)
「元明天皇・和銅2年(709)第一岳麓に社殿建立。三社の神(現祭神と同じ)を併せ祀り奉り『新宮』という」
「息長大姫尊は神代に唐国(韓国・新羅)経営に渡らせ給い、崇神天皇の御宇、本郷に帰り給い第一岳に鎮まり給う。」
「忍骨命は天津日大御神アマテラスの御子で、荒魂アラタマは南山に和魂ニギタマは第二岳に鎮まり給う。」
「比咩命は第三岳に鎮まり給う。」
「三神三峰に鎮座し“香春三所大明神”と崇め奉る」

・香春神社古縁起(太宰管内志所載、成立年代不明)
「第一殿は大目命、第二殿は忍骨命、第三殿は空殿なり」 
第三殿空殿の理由として、
「第三殿は豊比咩命の御殿だが、豊比咩命は祭の時のみ新宮に留まり、祭が終わると採銅所に帰られるから“空殿”という」との注記あり。

・続日本後記(869成立)・承和4年(837)条
「太宰府曰く、豊前国田河郡香春神は辛国息長火姫大日命、忍骨命、豊比咩命の是三社である。」
「元々この山は石山であって草木がなかったが、延暦22年(803)、最澄が入唐するにあたってこの山に登り、渡海の平安を願って麓に寺を建てて祈祷したところ、石山に草木が繁茂するという神験があった。」
「水旱疾疫の災いがある毎に郡司百姓が祈祷し、官社に列することを望んだので、之を許した」

・香春神社解文(弘安10年1287成立)
「日置絢子が採銅所内にある阿曽隈あそくまを崇拝し奉る。降って元明天皇御宇・和銅2年、『新宮』に勧請し奉る。是香春也。本新両社と号す」

・三代実録(901年成立)・貞観7年(864)条
「豊前国従五位下辛国息長比咩神・忍骨神に従四位上を叙す」

2013年1月31日
2021年05月09日 改

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香春神社周辺 其の五

 父が残した書籍の一冊「日本にあった朝鮮王国」~謎の「秦王国」と古代信仰~(大和岩雄 著)
この本の舞台が豊前の国であることを知って、豊前の神社を調べるようになった。

 父方の祖先は宇佐八幡宮に関係があり、その宇佐八幡宮に香春神社が関わっているということもきっかけの一つ。

 八幡神は、自ら「吾、辛国の城に八流の幡を天降し、日本国の神として顕れ」というように、わが国古来からの神ではなく、大陸から入ってきた神で、その原姿は新羅から渡来した神だといわれている。

 新羅の神 豊前国風土記(天平5年733頃成立)逸文

 「田河郡・鹿春郷カハル。この郷の中に川があり、年魚アユがいる。
この河の瀬は清いので、清河原キヨカハラの村と名づけた。
いま鹿春の郷というのは訛ったのである。
昔、新羅の国の神が自ら海を渡って来着し、この河原に住んだ。
郷の北に峰がある。
頂上に沼がある。
黄楊樹ツゲが生えている。
また竜骨がある。
第二の峰には銅と黄楊、竜骨などがある。
第三の峰には竜骨がある」

 香春はカワラと読み、河原からの転とも、朝鮮語で“金の村”を意味するカグポルからくるといわれている。

 南から一・二・三の峰の並ぶ香春岳は石灰岩からなる山で、特に三の峰は銅を産出することで知られ、今も、三の峰麓には“採銅所”という地名が残っている。

 風土記にいう“新羅の神が来着し”とは、その神を祀る新羅の人が渡来してきたことを意味し、彼らは秦氏系といわれてる。

 秦氏とは、応神14年(西暦283年)に百済から百二十県の民を率いて渡来した弓月君ゆづきのきみの後裔といわれている(日本書紀)。

 秦氏は土木・養蚕・機織り・採鉱冶金といった先進技術をもって各地に展開したといわれ、風土記の記述は、新羅からの渡来人・秦氏が、香春岳の麓に居住して銅鉱の採鉱・精錬・鋳造に従事していたことを示している。

 これら渡来人が奉じていた新羅の神とは、わが国の素朴な自然信仰を許とする農業神的神格とは違って、新羅の古来信仰に仏教・儒教・道教などが複雑に混淆した特異な神だった。

 特に香春に渡来した新羅の神は、渡来人のもつ鍛冶技術ともあいまって鍛冶の神という神格が強く、それにたずさわる鍛冶工人は、岩石から銅を取り出すという人智の及ばない呪力を持つシャーマンでもあった。

 風土記にいう新羅の神の後嗣は、今、古宮八幡宮に常座する豊比咩とよひめであると考えられる。

 香春神社
豊前国風土記によると、昔、新羅の神が海を渡ってこの河原に住み、郷の北に三峰あり、古く、一の峰に唐土に渡っていた神「辛国息長大姫大目命からくにおきながおおひめおおめのみこと」を祀り、二の峰には天津日大御神の御子の「忍骨命おしほねのみこと」、三の峰には神武天皇の外祖母、住吉大明神の御母の「豊比売とよひめ」を祀っていたという。
豊比売命は続日本紀に八幡比売神であると記され、宇佐の元神とされる。

 豊比売命とは?

 魏志倭人伝によれば
男子を王とする倭国は7、80年経過したのち、歴年のあいだ相攻伐あいこうばつが続いた。
この争乱はヒミコを女王として共立することで治まっていたが、ヒミコが死んで男王を立ててから国中が従わず、さらに互いに誅殺し、当時千余人を殺した。その後 ヒミコの同族の娘トヨを王として、ついに国中が治まった。

 豊比売命とは「トヨ」だろうか?

2013年1月30日
2021年5月9日 改

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香春神社周辺 其の四

 其の三に続き、香春岳の二の岳に祀られていてた天忍骨尊アメノオシホネノミコトについて。

 添田町のホームページから

 『大国主命は、島根県出雲大社に祀られる神で、大己貴命オオナムチノミコトとも書かれることがある。
天忍骨尊アメノオシホネノミコト天忍穂耳命アメノオシホミミノミコトとも書き、三重県伊勢神宮に祀られる天照大神の御子であり、英彦山神宮の御祭神である。
昔、大国主命が、宗像三神をつれて出雲の国から英彦山北岳にやって来た。
頂上から四方を見渡すと、土地は大変こえて農業をするのに適している。
早速、作業にかかり馬把マガを作って原野をひらき田畑にし、山の南から流れ出る水が落ち合っている所の水を引いて田にそそいだ。二つの川が合流する所を二又といい、その周辺を落合といった。
大国主命は更に田を広げたので、その下流を増田(桝田)といい、更に下流を副田(添田)といい、この川の流域は更に開け、田川と呼ぶようになったという。
ところがその後、天忍骨尊アメノオシホネノミコトが英彦山に天降って来たので、大国主命は北岳を天忍骨尊アメノオシホネノミコトに譲った。
 天忍骨尊 アメノオシホネノミコトは、八角の三尺六寸の水晶石の上に天降って鎮座し、尊が天照大神の御子であるので、この山を「日子の山」から後に、「彦山」と呼ぶようになった。

 後世の10代崇神天皇のとき、水晶石が光を発し、遠く大和の天皇の宮殿まで照した。天皇はこれを何事だろうと怪しんで勅使を派遣して調べさせた。勅使は光を発する場所を探して彦山までたどりつき、白幣を捧げて祭ったといわれる。
神が山の頂きに天降る話は各所にあるが、天忍骨尊は添田町内の岩石山カンジャクザンにも天降っている。
宗像三神は、宗像郡宗像神社の御祭神であるが、「日本書紀」には、宇佐(大分県)に天降ったと書いており、田川郡金田町では嘉穂郡頴田カイタ町(現 飯塚市頴田)との境にある日王山ヒノオウザン日尾山シャカノオサン)に、宗像三神が 宇佐から宗像に向う途中天降り、母神天照大神を祀ったという話がある。』(添田町 ホームページ)

 天忍穂耳命アメノオシホミミノミコトが大国主命から英彦山を譲り受けたということになっているが、これは瓊瓊杵尊ニニギノミコトが大国主命から葦原中国アシハラノナカツクニを譲り受けたという国譲りの話とは合致しない。が国譲りが行われた記録という点では同じであり、「葦原中国は北部九州である」と説く人もいる。
其の二の補足にも書いた阿加流比売神」、「天之日矛」、「都怒我阿羅斯等」をからめて語る人もいる。

英彦山が本当の高天原だという人もいる。

補足01 系譜の整理

 天照大神アマテラスオオカミ ➡ 天忍穂耳命アメノオシホミミノミコト ➡ 瓊瓊杵尊ニニギノミコト(日向三代の初代) ➡ 火折尊ホオリノミコト(山幸彦)/彦火火出見尊ヒコホホデミノミコト ➡ 鸕鶿草葺不合尊ウカヤフキアワセズノミコト ➡ 彦火火出見ヒコホホデミ(神武天皇 初代天皇)

補足02 葦原中国アシハラノナカツクニ

 古事記では大国主が出雲の美保岬にいたとき少彦名命スクナヒコナと出会い、ともに国つくりを行ったのち、少彦名命スクナヒコナノミコトは常世に去った。
日本書紀では大国主命は少彦名命スクナヒコナノミコトと国つくりを行い少彦名命スクナヒコナノミコトが常世に去ったのちも一人で国つくりを続け、そして出雲国に到るとある。

 この大国主命が平定したとされる葦原中国アシハラノナカツクニとは出雲国であると思われているが、『宝賀寿男の説によれば、本来の高天原(所謂邪馬台国)は北九州の筑後川中・下流域にあり、天孫降臨の地は現在の怡土郡イトグン早良郡サワラグン(現糸島市、旧伊都国)辺りで葦原中国アシハラノナカツクニとは海神信仰の強い那珂郡ナカグン奴国ナコク)のことであって、現在でいう出雲国ではない』(Wikipediaから抜粋)という見解もある。

 『「古事記」神代上巻に「この三柱の神は、胸形君等のもちイツ三前ミマエの大神なり」とあり、元来は宗像氏(胸形氏)ら筑紫(九州北部)の海人族が古代より集団で祀る神であったとされる。海を隔てた大陸や半島との関係が緊密化(神功皇后による三韓征伐神話など)により土着神であった三神が4世紀以降、国家神として祭られるようになったとされる。』(Wikipediaから抜粋

 『「日本書紀」については、卷第一・神代上・第六段の「本文」とその「一書」で天照大神と素戔嗚尊の誓約の内容が多少異なる。降臨の地は、福岡県の宗像地方東端の鞍手郡鞍手町の六ヶ岳というで、筑紫国造の田道命タジノミコトの子孫の、長田彦(小狭田彦)が、天照大神の神勅シンチョクをうけて神籬ヒモロギを建てたのが祭祀の始まり。『宗像大菩薩御縁起「筑前国風土記逸文」』『香月文書』『六ケ岳神社記』『福岡県神社誌』など。天照大神が「汝三神イマシミハシラノカミ、道の中に降りてして天孫アメミマを助けまつりて、天孫の為に祭られよ」との神勅を授けたと記されている。これは現代まで祭祀が続く御神名ゴシンメイとその鎮座地が明確に記載される記述では、最も古い。』(Wikipediaから抜粋

 「宗像の大神、天より降りて崎戸山に居りましし時……」筑前国風土記逸文(崎戸山は鞍手郡の六ヶ岳のことのようだ。)

 <六嶽神社由緒>鞍手町誌による
宗像三女神は最初に六ヶ岳に降臨し、孝霊天皇のとき宗像三所に遷幸され宗像大神となった。その後、成務天皇七年室木里長長田彦が六ヶ岳崎戸山に神籬(ひもろぎ)を営んだのが当社の始まりであると伝えられている。(以下略)

 『第三の「一書」では、この三女神は先ず筑紫の宇佐嶋の御許山オモトヤマに降臨し宗像の島々に遷座されたとあり、宇佐神宮では本殿二之御殿に祀られ、この日本書紀の記述を神社年表の始まりとしている。八幡神の比売大神である。』(Wikipediaから抜粋

補足03 天孫族

 『中国オルドス付近を故地とする殷族などと同系の種族で、山西、山東、遼西を経て、朝鮮半島北部から南下し、弁辰を根拠地として、紀元1世紀前半頃に日本列島に到来した種族とされる
北九州の松浦半島に上陸した後は、松浦川に沿って奥地に溯り、天山南方の佐賀平野を西から東に進んで、筑後川の中・下流域、水縄山地(身納山脈)、特に高良山の北麓から西麓の辺り、筑後国の御井郡・山本郡を中心とする地域に定着したとされる。この種族は鉄器文化や鳥トーテミズムを持ち、支石墓や後期の朝鮮式無文土器にも関係したとみられる。また、これが『魏志倭人伝』に見える邪馬台国の前身たる部族国家(高天原)で、このような原始国家を2世紀初頭前後頃から形成し、2世紀後半には分岐国家の伊都国から神武天皇兄弟を輩出した
神武天皇の子孫は大和朝廷の基礎を作り上げ、残った一族は3世紀前半に女王卑弥呼などを輩出したが、4世紀代に古墳文化を所持し、強大な勢力となった景行天皇や神功皇后による九州地方の平定によって滅んだものとされる。』(wikipedia 天孫族)

 瓊瓊杵尊ニニギノミコトの天孫降臨については「高天原を離れ、天の浮橋から浮島に立ち、筑紫の日向の高千穂の久士布流多気クジフルタケに天降った。」ということだが、朝鮮半島から到来し筑後に定着した天孫族が、瓊瓊杵尊ニニギノミコトの代に降臨(征服)したのは奴国や伊都国の辺りの北部九州に勢力を持ち、三女神を祀っていた海人族ではないかと思う。

補足 04 射手引神社

「筑紫鎌の南端、豊前田川に接する地を山田の庄といふ。庄の東北に山あり帝王山と云ふ。斯く云ふ所以は、昔神武天皇東征の時、豊前宇佐島より阿柯小重に出でて天祖吾勝尊を兄弟山の中腹に祭りて、西方に国を覓(もと)め給はんと出御し給ふ時、この山路を巡幸し給ふ故に此の名あるなり。神武山」

 ここで云う筑紫鎌は現嘉麻、阿柯小重は我鹿(赤村)の旧名であると思われる。

 田川郡に入り、田川の地をしろし召した天皇は、駒主命を道案内として、帝王越を経て嘉穂郡の地に入らせられ、夢に手力雄命の神霊を受け給ひ、猪位金(いいかね)村の一端、兄弟山に登って天祖の御霊を祭られたが、その神跡を帝王山といひ伝へている。天皇はここで、嘉麻(鎌)の天地をみそなはし、進んで小野谷の里(宮野村)に成らせられ、ここの岩山に高木の神を祭られた。

 赤村は吾勝野とも呼ばれその昔、天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)がタカミムスビの娘と結婚し、この地で、田川郡一帯を統治していた。その跡地を狭野命(さのみこと)(神武天皇の幼名)は訪問しているのである。比較的簡単に豪族たちの協力が得られたものと判断する。

補足05
話は少し横にそれるが、上にある頴田の鹿毛馬(かけま)には神籠石(コウゴイシ)と呼ばれる遺跡があり、さらに宗像三女神が立ち寄った日王山が近くにある。

 宗像三女神という神様は誓約(うけひ)の際天忍骨尊らとともに生まれた神で、こちらはスサノオの子である。

 神籠石は7世紀の山城の跡であり、その頃の山城には朝鮮式山城と神籠石型山城があるそうだ。

 『日本書紀』『続日本紀』に記載されている山城は朝鮮式山城と呼び、それ以外は神籠石型山城と呼ぶ。築造年代は7世紀前半~中頃に築造され、7世紀末には崩壊するという、短い存続期間であった可能性が高いとのこと。そして斉明天皇の西征(朝倉橘広庭宮遷宮)と神籠石型山城の築造とは同一戦略、つまり北部九州の守りのために杷木城を中心に扇型に配置、造営されたという見解がある。

 朝倉橘広庭宮(アサクラノタチバナノヒロニワノミヤ)とは何かというと、斉明6年(660)7月、倭と親交が深かった百済が唐・新羅連合軍に滅ぼされた。斉明天皇は百済再興のためにその遺臣である鬼室福信から救援要請を受けると、即座に百済救援軍派遣を決定した。同年12月には、自ら難波に行幸し、翌年1月6日には出航して、14日には伊予の石湯行宮に到着した。約2ヶ月間滞在した後、筑紫の那大津に上陸し、3月25日に磐瀬行宮(長津宮)に入る。約1ヶ月半の滞在の後、5月9日に、この朝倉橘広庭宮に遷宮する。この宮を防衛するために山城が造営されたと考えられている。ところが翌年7月24日には斉明天皇は朝倉橘広庭宮で死去した。喪に服した後、8月1日には中大兄皇子が磐瀬宮(長津宮)に移り、朝倉橘広庭宮の役割は終焉した。

 朝倉橘広庭宮の所在地の候補は①朝倉町大字須川、②同山田、③杷木町大字志波の3ヶ所があり、さらに最近、④小郡市上岩田遺跡が加わっている。

 斉明天皇が亡くなり、白村江の戦いで敗れたのち、北部九州の守りは大宰府を中心とするものになり、神籠石型山城は完成しないまま放置されてと思われる。(以上小澤太郎氏のホームページから)
http://tsukushigata.webcrow.jp/kougoisihaiti.html

 祖先は思った以上に行動範囲が広く、ちょっと大きな川を渡るくらいの気持ちで対馬海峡を渡り、朝鮮半島と行き来をしたり、戦ったりしていたのかもしれない。今よりももっと大陸は近く、それは秀吉の朝鮮出兵の頃もそうだったのかもしれない。

 とりあえず、調べれば調べるほどいろいろなことに波及して混乱してきたので、天忍骨尊(オシホネノミコト)とその後の国譲りについてはこの辺で一旦収めて、次は豊比売命神社について考える。

2012年11月27日

2021年04月27日改