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香春神社周辺 その八

天之日矛 と 都怒我阿羅斯等 と 赤留比売

 『摂津国風土記』逸文(『萬葉集註釈』所引)によると、応神天皇の時に新羅国の女神が夫のもとを逃れ、筑紫国の「伊波比乃比売島」に住んだ(大分県の姫島か)。しかしこの島はまだ新羅から遠くないため男がやって来るだろうと、さらに摂津国の比売島松原に移った。そしてその地名「比売島」は元の島の名を取ったことに由来する、という。 

 『古事記』では応神天皇記に次の記述がある。
 昔、新羅のアグヌマ(阿具奴摩、阿具沼)という沼で女が昼寝をしていると、その陰部に日の光が虹のようになって当たった。すると女はたちまち娠んで、赤い玉を産んだ。その様子を見ていた男は乞い願ってその玉を貰い受け、肌身離さず持ち歩いていた。ある日、男が牛で食べ物を山に運んでいる途中、天之日矛と出会った。天之日矛は、男が牛を殺して食べるつもりだと勘違いして捕えて牢獄に入れようとした。男が釈明をしても天之日矛は許さなかったので、男はいつも持ち歩いていた赤い玉を差し出して、ようやく許してもらえた。天之日矛がその玉を持ち帰って床に置くと、玉は美しい娘になった。
 天之日矛は娘を正妻とし、娘は毎日美味しい料理を出していた。しかし、ある日奢り高ぶった天之日矛が妻を罵ったので、親の国に帰ると言って小舟に乗って難波の津に逃げてきた。その娘は、難波の比売碁曾の社に鎮まる阿加流比売神であるという。

『日本書紀』では垂仁天皇紀に次の記述がある。(垂仁天皇は応神天皇の子、神功皇后の孫)
 都怒我阿羅斯等は自分の牛に荷物を背負わせて田舎へ行ったが、牛が急にいなくなってしまった。足跡を追って村の中に入ると、その村の役人が、「この荷の内容からすると、この牛の持ち主はこの牛を食べようとしているのだろう」と言って食べてしまったという。都怒我阿羅斯等は牛の代償として、その村で神として祀られている白い石を譲り受けた。石を持ち帰って寝床に置くと、石は美しい娘になった。都怒我阿羅斯等が喜んで娘と性交しようとしたが、目を離したすきに娘はいなくなってしまった。都怒我阿羅斯等の妻によれば、娘は東の方へ行ったという。娘は難波に至って比売語曾社の神となり、また、豊国の国前郡へ至って比売語曾社の神となり、二箇所で祀られているという。

 また、『日本書紀』では次の記述もある。
 崇神天皇の時、額に角の生えた都怒我阿羅斯等が船で穴門から出雲国を経て笥飯浦に来着したという。そしてこれが「角鹿(つぬが)」の語源であるとしている(角鹿からのちに敦賀に転訛)。また垂仁天皇の時の帰国の際、天皇は阿羅斯等に崇神天皇の諱(御間城<みまき>天皇)の「みまき」を国名にするよう詔した(任那(弥摩那)の語源)。その時に阿羅斯等に下賜した赤絹を新羅が奪ったといい、これが新羅と任那の争いの始まりであるとする 

 仲哀天皇と神功皇后は初めに角鹿(つぬが)の笥飯宮(けひのみや)を宮としていた。

 『豊前国風土記』逸文(『宇佐宮託宣集』所引)では、新羅国の神がやって来て田河郡鹿春郷の付近に住み「鹿春の神(かはるのかみ/かわらのかみ)」と称されたとする伝承を記す(香春神社)。

 豊前国風土記・逸文に、「田川郡・鏡山。昔、息長足姫命が此の山に登られ、新羅征討の成功を祈って鏡を安置された。その鏡が化して石となり現に山の中にある。それで鏡山という」との一文がある。
 熊襲征伐行軍の際この地を通過したという伝承があり、トンネルには「仲哀」の名がつけられている。

 香春社縁起では
 「新羅神は比売許曽(ひめこそ)の神(赤留比売(あかるひめ))の垂迹(すいじゃく)で、摂津国東生り郡・比売許曽神社と同体也」とある。アカルヒメとは日光に感じて成り出でた赤玉から生まれ、新羅の王子・天日鉾(あめのひほこ)の妻となるが、日鉾の横暴から逃れて渡来し、一旦筑紫に留まり、最終的に難波に祀られたという。
  (赤留比売 については「其の弐」でも書いているので重複している。)

 「豊比咩命」と、神代に唐土の経営に渡らせ給比、崇神天皇の御代に帰座したという「辛国息長大姫大目命」はどちらも帰化人が祀る神だったと思われる。
  辛国息長大姫大目命 は 赤留比売 ではないか?では 豊比咩命 は?

 香春神社の第一の神は高句麗系渡来人( 日置絢子) が香春の阿曽(あそ)(くま)の森に祀った神だった。沖縄や奄美の御嶽のような森が阿曽(あそ)(くま)社だったのだろうと思う。(ちょっと 新羅のアグヌマに似ていると思った。) この神はきっと火をつかさどる神だっただろう。

 その後、香春に移り住んだ 新羅からの渡来人の神は 赤留比売(あかるひめ)= 辛国息長大姫大目命 で、彼らはこの地に秦王国を作り、やがて勢力を広げながら各地へ技術や文化を広めていく。その中の一つの集団が宇佐へとたどり着き、八幡神を祀るようになる。この秦氏系の集団が「辛嶋氏」だ。

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香春神社周辺 その七

香春神社の歴史を簡単にまとめてみる。

① 新羅の神(豊比咩命とよひめのみこと)が日置絢子によって、三ノ岳ふもとの阿曽(あそ)(くま)に祀られる。
 香春神社解文(弘安10年1287成立)
 「日置絢子が採銅所内にある阿曽(あそ)(くま)を崇拝し奉る。降って元明天皇御宇・和銅2年 (709) 、『新宮』に勧請し奉る。是香春也。本新両社と号す」

② 709年 豊比咩命神社の本社として古宮八幡神社が三ノ岳ふもとに創祀される。阿曽(あそ)(くま)社を元宮とする。
 古宮八幡神社累縁起
 「古宮八幡神社は平安時代にできた「延喜式」の「神名」に挙げられている豊比咩命神社の本社でありその最初の鎮座地は香春三ノ岳の麓、阿曽(あそ)(くま)という所である。
 創祀は元明天皇・和銅2年(709)今より実に壱千弐百八拾余年の古社である。」

③ 709年 第一岳麓に香春神社社殿が建立され、息長大姫尊、忍骨命、豊比咩命の三柱を合祀。
 香春神社縁起(成立年代不明)
 「元明天皇・和銅2年(709)第一岳麓に社殿建立。三社の神(現祭神と同じ)を併せ祀り奉り『新宮』という」なお、「息長大姫尊は神代に唐国(韓国・新羅)経営に渡らせ給い、崇神天皇の御宇、本郷に帰り給い第一岳に鎮まり給う。忍骨命は天津日大御神(アマテラス)の御子で、(あら)(たま)は南山に和魂(にぎたま)は第二岳に鎮まり給う。豊比咩命は第三岳に鎮まり給う。三神3峰に鎮座し“香春三所大明神”と崇め奉る」

 香春神社古縁起(太宰管内志所載、成立年代不明)
 「第一殿は大目命、第二殿は忍骨命、第三殿は空殿なり」
 第三殿空殿の理由として、
 「第三殿は豊比咩命の御殿だが、豊比咩命は祭の時のみ新宮に留まり、祭が終わると採銅所に帰られるから“空殿”という」との注記あり。

いろいろな疑問

 (1) 「阿曽(あそ)(くま)」とは?
 「日置絢子」とは高句麗系渡来人「日置(へき)(うじ)」だろうか?
 「・・・また日置一族は砂鉄の生産地に多く分布し(肥後菊池川,出雲国飯石郡),さらに土器生産にも当たったと考えられ,また日置氏は土師氏系とされ菅原朝臣を賜姓されている」(《三代実録》)。
 香春に定住したのは百済を経由して渡来した弓月君(秦の始皇帝3世直系)と120県の人民「秦氏」だと思っていた。

 (2) 古宮八幡神社累縁起と香春神社縁起では創祀の年が同じ?

 (3)  豊比咩命 と 辛国息長大姫大目命 は?

 香春神社の社前には「辛国息長大姫大目命は神代に唐土の経営に渡らせ給比、崇神天皇の御代に帰座せられ、豊前国鷹羽郡鹿原郷の第一の岳に鎮まり給ひ」とある。
 “息長”とは息長帯比売(オキナガタラシヒメ)(神功皇后)のことか?
 仲哀天皇の九州熊襲征伐に随伴し、仲哀天皇が崩御後に熊襲征伐を達成。新羅、百済、高麗を服属させたといわれている神功皇后のことだろうか。
 「崇神天皇の御代」とは3世紀後半。
 神功皇后の息子で実在性の高い天皇と思われる応神天皇の在位は4世紀後半から5世紀にかけて。
 神功皇后は実在性が疑われている。 辛国息長大姫大目命 =神功皇后?
 気になるのは神功皇后(息長帯比売)の母方をたどると新羅の王子・日鉾(天之日矛)に連なるとの伝承があること。

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香春神社周辺 その六

香春神社と古宮八幡宮

『香春神社』は延喜式神名帳(927成立)に、
 「豊前国田川郡三座 辛国息長大姫大目カラクニオキナガオオヒメオオメ命神社、 忍骨オシホ命神社、 豊比咩トヨヒメ命神社」とある式内社。一ノ岳の麓に鎮座。
 香春神社古縁起には「第三殿は豊比咩命の御殿だが、豊比咩命は祭の時のみ新宮に留まり、祭が終わると採銅所に帰られるから“空殿”という」と注記がある。

『古宮八幡宮』(元宮八幡ともいう。式内社ではない)は三の岳の麓に鎮座する。
 畧縁起には「最初の鎮座地は香春三ノ岳の麓、阿曽隈という所である」とある。
 また、「創祀は和銅2年(709年)である」とある。 

古宮八幡宮 鳥居
古宮八幡宮 累縁起
古宮八幡宮 社殿紋は英彦山神宮と同じ鷹羽紋

*延喜式神名帳(927年)に記載された神社、および現代におけるその論社を「延喜式の内に記載された神社」の意味で延喜式内社、または単に式内社しきないしゃ式社しきしゃという。

・香春神社縁起(成立年代不明)
「元明天皇・和銅2年(709)第一岳麓に社殿建立。三社の神(現祭神と同じ)を併せ祀り奉り『新宮』という」
「息長大姫尊は神代に唐国(韓国・新羅)経営に渡らせ給い、崇神天皇の御宇、本郷に帰り給い第一岳に鎮まり給う。」
「忍骨命は天津日大御神アマテラスの御子で、荒魂アラタマは南山に和魂ニギタマは第二岳に鎮まり給う。」
「比咩命は第三岳に鎮まり給う。」
「三神三峰に鎮座し“香春三所大明神”と崇め奉る」

・香春神社古縁起(太宰管内志所載、成立年代不明)
「第一殿は大目命、第二殿は忍骨命、第三殿は空殿なり」 
第三殿空殿の理由として、
「第三殿は豊比咩命の御殿だが、豊比咩命は祭の時のみ新宮に留まり、祭が終わると採銅所に帰られるから“空殿”という」との注記あり。

・続日本後記(869成立)・承和4年(837)条
「太宰府曰く、豊前国田河郡香春神は辛国息長火姫大日命、忍骨命、豊比咩命の是三社である。」
「元々この山は石山であって草木がなかったが、延暦22年(803)、最澄が入唐するにあたってこの山に登り、渡海の平安を願って麓に寺を建てて祈祷したところ、石山に草木が繁茂するという神験があった。」
「水旱疾疫の災いがある毎に郡司百姓が祈祷し、官社に列することを望んだので、之を許した」

・香春神社解文(弘安10年1287成立)
「日置絢子が採銅所内にある阿曽隈あそくまを崇拝し奉る。降って元明天皇御宇・和銅2年、『新宮』に勧請し奉る。是香春也。本新両社と号す」

・三代実録(901年成立)・貞観7年(864)条
「豊前国従五位下辛国息長比咩神・忍骨神に従四位上を叙す」

2013年1月31日
2021年05月09日 改

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香春神社周辺 其の五

 父が残した書籍の一冊「日本にあった朝鮮王国」~謎の「秦王国」と古代信仰~(大和岩雄 著)
この本の舞台が豊前の国であることを知って、豊前の神社を調べるようになった。

 父方の祖先は宇佐八幡宮に関係があり、その宇佐八幡宮に香春神社が関わっているということもきっかけの一つ。

 八幡神は、自ら「吾、辛国の城に八流の幡を天降し、日本国の神として顕れ」というように、わが国古来からの神ではなく、大陸から入ってきた神で、その原姿は新羅から渡来した神だといわれている。

 新羅の神 豊前国風土記(天平5年733頃成立)逸文

 「田河郡・鹿春郷カハル。この郷の中に川があり、年魚アユがいる。
この河の瀬は清いので、清河原キヨカハラの村と名づけた。
いま鹿春の郷というのは訛ったのである。
昔、新羅の国の神が自ら海を渡って来着し、この河原に住んだ。
郷の北に峰がある。
頂上に沼がある。
黄楊樹ツゲが生えている。
また竜骨がある。
第二の峰には銅と黄楊、竜骨などがある。
第三の峰には竜骨がある」

 香春はカワラと読み、河原からの転とも、朝鮮語で“金の村”を意味するカグポルからくるといわれている。

 南から一・二・三の峰の並ぶ香春岳は石灰岩からなる山で、特に三の峰は銅を産出することで知られ、今も、三の峰麓には“採銅所”という地名が残っている。

 風土記にいう“新羅の神が来着し”とは、その神を祀る新羅の人が渡来してきたことを意味し、彼らは秦氏系といわれてる。

 秦氏とは、応神14年(西暦283年)に百済から百二十県の民を率いて渡来した弓月君ゆづきのきみの後裔といわれている(日本書紀)。

 秦氏は土木・養蚕・機織り・採鉱冶金といった先進技術をもって各地に展開したといわれ、風土記の記述は、新羅からの渡来人・秦氏が、香春岳の麓に居住して銅鉱の採鉱・精錬・鋳造に従事していたことを示している。

 これら渡来人が奉じていた新羅の神とは、わが国の素朴な自然信仰を許とする農業神的神格とは違って、新羅の古来信仰に仏教・儒教・道教などが複雑に混淆した特異な神だった。

 特に香春に渡来した新羅の神は、渡来人のもつ鍛冶技術ともあいまって鍛冶の神という神格が強く、それにたずさわる鍛冶工人は、岩石から銅を取り出すという人智の及ばない呪力を持つシャーマンでもあった。

 風土記にいう新羅の神の後嗣は、今、古宮八幡宮に常座する豊比咩とよひめであると考えられる。

 香春神社
豊前国風土記によると、昔、新羅の神が海を渡ってこの河原に住み、郷の北に三峰あり、古く、一の峰に唐土に渡っていた神「辛国息長大姫大目命からくにおきながおおひめおおめのみこと」を祀り、二の峰には天津日大御神の御子の「忍骨命おしほねのみこと」、三の峰には神武天皇の外祖母、住吉大明神の御母の「豊比売とよひめ」を祀っていたという。
豊比売命は続日本紀に八幡比売神であると記され、宇佐の元神とされる。

 豊比売命とは?

 魏志倭人伝によれば
男子を王とする倭国は7、80年経過したのち、歴年のあいだ相攻伐あいこうばつが続いた。
この争乱はヒミコを女王として共立することで治まっていたが、ヒミコが死んで男王を立ててから国中が従わず、さらに互いに誅殺し、当時千余人を殺した。その後 ヒミコの同族の娘トヨを王として、ついに国中が治まった。

 豊比売命とは「トヨ」だろうか?

2013年1月30日
2021年5月9日 改

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香春神社周辺 其の四

 其の三に続き、香春岳の二の岳に祀られていてた天忍骨尊アメノオシホネノミコトについて。

 添田町のホームページから

 『大国主命は、島根県出雲大社に祀られる神で、大己貴命オオナムチノミコトとも書かれることがある。
天忍骨尊アメノオシホネノミコト天忍穂耳命アメノオシホミミノミコトとも書き、三重県伊勢神宮に祀られる天照大神の御子であり、英彦山神宮の御祭神である。
昔、大国主命が、宗像三神をつれて出雲の国から英彦山北岳にやって来た。
頂上から四方を見渡すと、土地は大変こえて農業をするのに適している。
早速、作業にかかり馬把マガを作って原野をひらき田畑にし、山の南から流れ出る水が落ち合っている所の水を引いて田にそそいだ。二つの川が合流する所を二又といい、その周辺を落合といった。
大国主命は更に田を広げたので、その下流を増田(桝田)といい、更に下流を副田(添田)といい、この川の流域は更に開け、田川と呼ぶようになったという。
ところがその後、天忍骨尊アメノオシホネノミコトが英彦山に天降って来たので、大国主命は北岳を天忍骨尊アメノオシホネノミコトに譲った。
 天忍骨尊 アメノオシホネノミコトは、八角の三尺六寸の水晶石の上に天降って鎮座し、尊が天照大神の御子であるので、この山を「日子の山」から後に、「彦山」と呼ぶようになった。

 後世の10代崇神天皇のとき、水晶石が光を発し、遠く大和の天皇の宮殿まで照した。天皇はこれを何事だろうと怪しんで勅使を派遣して調べさせた。勅使は光を発する場所を探して彦山までたどりつき、白幣を捧げて祭ったといわれる。
神が山の頂きに天降る話は各所にあるが、天忍骨尊は添田町内の岩石山カンジャクザンにも天降っている。
宗像三神は、宗像郡宗像神社の御祭神であるが、「日本書紀」には、宇佐(大分県)に天降ったと書いており、田川郡金田町では嘉穂郡頴田カイタ町(現 飯塚市頴田)との境にある日王山ヒノオウザン日尾山シャカノオサン)に、宗像三神が 宇佐から宗像に向う途中天降り、母神天照大神を祀ったという話がある。』(添田町 ホームページ)

 天忍穂耳命アメノオシホミミノミコトが大国主命から英彦山を譲り受けたということになっているが、これは瓊瓊杵尊ニニギノミコトが大国主命から葦原中国アシハラノナカツクニを譲り受けたという国譲りの話とは合致しない。が国譲りが行われた記録という点では同じであり、「葦原中国は北部九州である」と説く人もいる。
其の二の補足にも書いた阿加流比売神」、「天之日矛」、「都怒我阿羅斯等」をからめて語る人もいる。

英彦山が本当の高天原だという人もいる。

補足01 系譜の整理

 天照大神アマテラスオオカミ ➡ 天忍穂耳命アメノオシホミミノミコト ➡ 瓊瓊杵尊ニニギノミコト(日向三代の初代) ➡ 火折尊ホオリノミコト(山幸彦)/彦火火出見尊ヒコホホデミノミコト ➡ 鸕鶿草葺不合尊ウカヤフキアワセズノミコト ➡ 彦火火出見ヒコホホデミ(神武天皇 初代天皇)

補足02 葦原中国アシハラノナカツクニ

 古事記では大国主が出雲の美保岬にいたとき少彦名命スクナヒコナと出会い、ともに国つくりを行ったのち、少彦名命スクナヒコナノミコトは常世に去った。
日本書紀では大国主命は少彦名命スクナヒコナノミコトと国つくりを行い少彦名命スクナヒコナノミコトが常世に去ったのちも一人で国つくりを続け、そして出雲国に到るとある。

 この大国主命が平定したとされる葦原中国アシハラノナカツクニとは出雲国であると思われているが、『宝賀寿男の説によれば、本来の高天原(所謂邪馬台国)は北九州の筑後川中・下流域にあり、天孫降臨の地は現在の怡土郡イトグン早良郡サワラグン(現糸島市、旧伊都国)辺りで葦原中国アシハラノナカツクニとは海神信仰の強い那珂郡ナカグン奴国ナコク)のことであって、現在でいう出雲国ではない』(Wikipediaから抜粋)という見解もある。

 『「古事記」神代上巻に「この三柱の神は、胸形君等のもちイツ三前ミマエの大神なり」とあり、元来は宗像氏(胸形氏)ら筑紫(九州北部)の海人族が古代より集団で祀る神であったとされる。海を隔てた大陸や半島との関係が緊密化(神功皇后による三韓征伐神話など)により土着神であった三神が4世紀以降、国家神として祭られるようになったとされる。』(Wikipediaから抜粋

 『「日本書紀」については、卷第一・神代上・第六段の「本文」とその「一書」で天照大神と素戔嗚尊の誓約の内容が多少異なる。降臨の地は、福岡県の宗像地方東端の鞍手郡鞍手町の六ヶ岳というで、筑紫国造の田道命タジノミコトの子孫の、長田彦(小狭田彦)が、天照大神の神勅シンチョクをうけて神籬ヒモロギを建てたのが祭祀の始まり。『宗像大菩薩御縁起「筑前国風土記逸文」』『香月文書』『六ケ岳神社記』『福岡県神社誌』など。天照大神が「汝三神イマシミハシラノカミ、道の中に降りてして天孫アメミマを助けまつりて、天孫の為に祭られよ」との神勅を授けたと記されている。これは現代まで祭祀が続く御神名ゴシンメイとその鎮座地が明確に記載される記述では、最も古い。』(Wikipediaから抜粋

 「宗像の大神、天より降りて崎戸山に居りましし時……」筑前国風土記逸文(崎戸山は鞍手郡の六ヶ岳のことのようだ。)

 <六嶽神社由緒>鞍手町誌による
宗像三女神は最初に六ヶ岳に降臨し、孝霊天皇のとき宗像三所に遷幸され宗像大神となった。その後、成務天皇七年室木里長長田彦が六ヶ岳崎戸山に神籬(ひもろぎ)を営んだのが当社の始まりであると伝えられている。(以下略)

 『第三の「一書」では、この三女神は先ず筑紫の宇佐嶋の御許山オモトヤマに降臨し宗像の島々に遷座されたとあり、宇佐神宮では本殿二之御殿に祀られ、この日本書紀の記述を神社年表の始まりとしている。八幡神の比売大神である。』(Wikipediaから抜粋

補足03 天孫族

 『中国オルドス付近を故地とする殷族などと同系の種族で、山西、山東、遼西を経て、朝鮮半島北部から南下し、弁辰を根拠地として、紀元1世紀前半頃に日本列島に到来した種族とされる
北九州の松浦半島に上陸した後は、松浦川に沿って奥地に溯り、天山南方の佐賀平野を西から東に進んで、筑後川の中・下流域、水縄山地(身納山脈)、特に高良山の北麓から西麓の辺り、筑後国の御井郡・山本郡を中心とする地域に定着したとされる。この種族は鉄器文化や鳥トーテミズムを持ち、支石墓や後期の朝鮮式無文土器にも関係したとみられる。また、これが『魏志倭人伝』に見える邪馬台国の前身たる部族国家(高天原)で、このような原始国家を2世紀初頭前後頃から形成し、2世紀後半には分岐国家の伊都国から神武天皇兄弟を輩出した
神武天皇の子孫は大和朝廷の基礎を作り上げ、残った一族は3世紀前半に女王卑弥呼などを輩出したが、4世紀代に古墳文化を所持し、強大な勢力となった景行天皇や神功皇后による九州地方の平定によって滅んだものとされる。』(wikipedia 天孫族)

 瓊瓊杵尊ニニギノミコトの天孫降臨については「高天原を離れ、天の浮橋から浮島に立ち、筑紫の日向の高千穂の久士布流多気クジフルタケに天降った。」ということだが、朝鮮半島から到来し筑後に定着した天孫族が、瓊瓊杵尊ニニギノミコトの代に降臨(征服)したのは奴国や伊都国の辺りの北部九州に勢力を持ち、三女神を祀っていた海人族ではないかと思う。

補足 04 射手引神社

「筑紫鎌の南端、豊前田川に接する地を山田の庄といふ。庄の東北に山あり帝王山と云ふ。斯く云ふ所以は、昔神武天皇東征の時、豊前宇佐島より阿柯小重に出でて天祖吾勝尊を兄弟山の中腹に祭りて、西方に国を覓(もと)め給はんと出御し給ふ時、この山路を巡幸し給ふ故に此の名あるなり。神武山」

 ここで云う筑紫鎌は現嘉麻、阿柯小重は我鹿(赤村)の旧名であると思われる。

 田川郡に入り、田川の地をしろし召した天皇は、駒主命を道案内として、帝王越を経て嘉穂郡の地に入らせられ、夢に手力雄命の神霊を受け給ひ、猪位金(いいかね)村の一端、兄弟山に登って天祖の御霊を祭られたが、その神跡を帝王山といひ伝へている。天皇はここで、嘉麻(鎌)の天地をみそなはし、進んで小野谷の里(宮野村)に成らせられ、ここの岩山に高木の神を祭られた。

 赤村は吾勝野とも呼ばれその昔、天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)がタカミムスビの娘と結婚し、この地で、田川郡一帯を統治していた。その跡地を狭野命(さのみこと)(神武天皇の幼名)は訪問しているのである。比較的簡単に豪族たちの協力が得られたものと判断する。

補足05
話は少し横にそれるが、上にある頴田の鹿毛馬(かけま)には神籠石(コウゴイシ)と呼ばれる遺跡があり、さらに宗像三女神が立ち寄った日王山が近くにある。

 宗像三女神という神様は誓約(うけひ)の際天忍骨尊らとともに生まれた神で、こちらはスサノオの子である。

 神籠石は7世紀の山城の跡であり、その頃の山城には朝鮮式山城と神籠石型山城があるそうだ。

 『日本書紀』『続日本紀』に記載されている山城は朝鮮式山城と呼び、それ以外は神籠石型山城と呼ぶ。築造年代は7世紀前半~中頃に築造され、7世紀末には崩壊するという、短い存続期間であった可能性が高いとのこと。そして斉明天皇の西征(朝倉橘広庭宮遷宮)と神籠石型山城の築造とは同一戦略、つまり北部九州の守りのために杷木城を中心に扇型に配置、造営されたという見解がある。

 朝倉橘広庭宮(アサクラノタチバナノヒロニワノミヤ)とは何かというと、斉明6年(660)7月、倭と親交が深かった百済が唐・新羅連合軍に滅ぼされた。斉明天皇は百済再興のためにその遺臣である鬼室福信から救援要請を受けると、即座に百済救援軍派遣を決定した。同年12月には、自ら難波に行幸し、翌年1月6日には出航して、14日には伊予の石湯行宮に到着した。約2ヶ月間滞在した後、筑紫の那大津に上陸し、3月25日に磐瀬行宮(長津宮)に入る。約1ヶ月半の滞在の後、5月9日に、この朝倉橘広庭宮に遷宮する。この宮を防衛するために山城が造営されたと考えられている。ところが翌年7月24日には斉明天皇は朝倉橘広庭宮で死去した。喪に服した後、8月1日には中大兄皇子が磐瀬宮(長津宮)に移り、朝倉橘広庭宮の役割は終焉した。

 朝倉橘広庭宮の所在地の候補は①朝倉町大字須川、②同山田、③杷木町大字志波の3ヶ所があり、さらに最近、④小郡市上岩田遺跡が加わっている。

 斉明天皇が亡くなり、白村江の戦いで敗れたのち、北部九州の守りは大宰府を中心とするものになり、神籠石型山城は完成しないまま放置されてと思われる。(以上小澤太郎氏のホームページから)
http://tsukushigata.webcrow.jp/kougoisihaiti.html

 祖先は思った以上に行動範囲が広く、ちょっと大きな川を渡るくらいの気持ちで対馬海峡を渡り、朝鮮半島と行き来をしたり、戦ったりしていたのかもしれない。今よりももっと大陸は近く、それは秀吉の朝鮮出兵の頃もそうだったのかもしれない。

 とりあえず、調べれば調べるほどいろいろなことに波及して混乱してきたので、天忍骨尊(オシホネノミコト)とその後の国譲りについてはこの辺で一旦収めて、次は豊比売命神社について考える。

2012年11月27日

2021年04月27日改

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香春神社周辺 其の三

二の岳に祀られていた 忍骨尊オシホネノミコト天忍骨尊アメノオシホネノミコト正勝吾勝勝速日天忍穂耳命マサカツアカツカチハヤヒアメノオシホミミと言われる神で、天照大神アマテラスオオミカミ須佐之男命スサノオノミコトとの誓約うけひの際に勾玉から生まれた神。角川文庫の古事記では「皇室の御祖先と傳える」とある。

社前には「第二座忍骨命は、天津日大御神の御子にて、其の荒魂は第二の岳に現示せらる」とある。

修験道で有名な英彦山神宮も天忍骨尊(あめのおしほねのみこと)が祭神だ。

正勝吾勝マサカツアカツというのは「正しく勝った、私が勝った」という意味らしい。スサノオの勝利宣言だそうだ。

古事記ではアメノオシホネノミコトは母であるアマテラスオオミカミから地上を治めるよう命じられ「天の浮橋」までは行ったが、「地上は物騒だ」と戻ってきてしまう。

その後、スサノオの六世の孫、大国主神オオクニヌシノカミがアマテラスから国譲りを要請され、対話と武力を交えた末、結局オオクニヌシノカミは幽冥界の主、幽事の主宰者となり、出雲大社にお隠れになった。(国譲り)

再びアメノオシホネノミコトに地上を治めるように命が下ったが、アメノオシホネノミコトはその間に生まれた息子の瓊瓊杵尊ニニギノミコトに行かせるようにと進言し、ニニギノミコトが天降ることになる(天孫降臨)

ニニギノミコトはアメノオシホネノミコトと高皇産霊神タカミムスビの娘である栲幡千千姫命タクハタチヂヒメとの間の子であり、タカミムスビがこの孫を葦原中国アシハラノナカツクニの主にしようと画策したことのようだ。

この「吾勝」について記憶に残っていることがある。

家族や友人らとよく利用している「源じいの森」という施設がある。温泉、キャンプ場、宿泊施設、研修上などの施設がある。この施設は赤村が運営している。その赤村のホームページで村の名前の由来について次のような記述があった。

「伝えによると、吾勝野あがつのと呼んでいましたが、阿柯あかと津野と称するようになり、その後、清和天皇の「光明赫々こうみょうかくかく・・・」という言葉から赤の字を用いたといわれ、歴史上ゆかりの多い村として史跡や伝説が数多く残されています。」さらに調べると

吾勝尊あがつのみこと忍骨尊オシホネノミコトのこと)が岩石山がんじゃくさんに降臨し、この山を吾勝山と呼び、その東側の麓を吾勝野あがつのと呼んだ。

その後、景行天皇が熊襲征伐の途中この山に登った際、豊かな土地であるが南北に細長いので、二つの村に分けたがよいと仰せられ、北を「あか」、南を「つの」に分けた。「あか」は我鹿または阿柯になり、「つの」は津野(添田町津野)になった。

磐井の乱後の535年、大和王権の直轄地の屯倉みやけが九州の8個所に置かれ、大和王権の力が強化され、そのひとつが我鹿屯倉だった。

香春神社周辺を調べるつもりだったがそれでは済まないようになってきた。

話は卑弥呼や邪馬台国にまで及ぶ。

補足 01 射手引神社

「筑紫鎌の南端、豊前田川に接する地を山田の庄といふ。庄の東北に山あり帝王山と云ふ。斯く云ふ所以は、昔神武天皇東征の時、豊前宇佐島より阿柯小重に出でて天祖吾勝尊を兄弟山の中腹に祭りて、西方に国をもとめ給はんと出御し給ふ時、この山路を巡幸し給ふ故に此の名あるなり。神武山」

ここで云う筑紫鎌は現嘉麻、阿柯小重は我鹿(赤村)の旧名であると思われる。

田川郡に入り、田川の地をしろし召した天皇は、駒主命を道案内として、帝王越を経て嘉穂郡の地に入らせられ、夢に手力雄命の神霊を受け給ひ、猪位金いいかね村の一端、兄弟山に登って天祖の御霊を祭られたが、その神跡を帝王山といひ伝へている。天皇はここで、嘉麻(鎌)の天地をみそなはし、進んで小野谷の里(宮野村)に成らせられ、ここの岩山に高木の神を祭られた。

赤村は吾勝野とも呼ばれその昔、天忍穂耳命あめのおしほみみのみことがタカミムスビの娘と結婚し、この地で、田川郡一帯を統治していた。その跡地を狭野命さのみこと(神武天皇の幼名)は訪問している。神武東征の際、比較的簡単に豪族たちの協力が得られたかもしれない。

2012年11月27日

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香春神社周辺 其の二

香春岳は一の岳、二の岳、三の岳の三連で構成されている。この一の岳のふもとに香春神社がある。

延喜式神名帳に記載されている豊前国の神社は六座で、そのうちの三座は香春神社にある。(残りは宇佐神宮内)、格式高い神社である。

豊前国の一宮は八幡宮の総本社である宇佐八幡宮だが、香春神社を一宮とする資料もある。

香春神社の三座とは、一の岳の「辛国息長大姫大目カラクニオキナガオオヒメオオメ神社」、二の岳の「忍骨オシホネ神社」、三の岳の「豊比咩トヨヒメ神社」だ。

和銅2年(709年)に山頂の三社を現在地に移設した。その後、辛国息長大姫大目神社と忍骨神社に正一位の神階が与えられたのは、承和10年(843年)で、これは奈良の大神神社(859年)、石上神宮(868年)、大和神社(897年)が正一位になった年より早い。

移設された年は日本中の地名改定の詔が発布されたころで、日本の統治機構、宗教、歴史、文化の原型が作られた重要な時代「天武~持統」のすぐ後の時代である。

山の頂に鎮座していた神々は地上に移された。

さらに今では一の岳山頂は跡形もなく削り取られ、半分の高さになっている。

其の一に小さな画像を付けたが、昭和10年頃の一の岳は山頂が天を衝いている。

辛国息長大姫大目カラクニオキナガオオヒメオオメ」とはカラクニ=韓国 つまり朝鮮半島の神なのではないかと私でも想像できるのだが、社前には「辛国息長大姫大目命は神代に唐土の経営に渡らせ給比、崇神天皇の御代に帰座せられ、豊前国鷹羽郡鹿原郷の第一の岳に鎮まり給ひ」とあるので、今でいう朝鮮半島からの帰国子女ということだろうか。

崇神天皇は御肇國天皇ハツクニシラススメラミコトつまり「初めて国を治めた天皇」という名が付いている。

最初の天皇である神武天皇(『日本書紀』では始馭天下之天皇ハツクニシラススメラミコト)と同じ名前である。神武天皇の即位年は、『日本書紀』の歴代天皇在位年数を元に逆算すると西暦紀元前660年に相当する。宮内庁の天皇系図でも初代天皇とされ 前660年~前585年となっている。

第10代崇神天皇 (前97年~前30年)、実在が確実なもっとも古い天皇は第26代継体天皇(507~530)。

辛国息長大姫大目だが、崇神天皇の頃に帰座せられ祀られている。帰座とは元の座に戻ることだから、崇神天皇より前の時代に唐土へ渡り戻ってきた女神ということになる。ここで 阿加流比売神(あかるひめのかみ)の話が浮かんでくるのだが、別の項で取り上げたい。

朝鮮半島に渡った縄文人の子孫が数千年を経て日本へ戻り弥生人となったという話を聞いた。辛国息長大姫大目もそうなのかもしれない。

700年ほどのちの元明天皇の時代に山頂から移された。理由はまだ調査中。

先に出てきた豊前国鷹羽郡鹿原郷と言う地名も探ってみたい。
英彦山神社の祭神も、香春岳二の岳に祀られていた忍骨尊オシホネノミコトで、こちらは天照大神の子である。そして、英彦山神社と香春神社の紋はどちらも二枚の鷹の羽を「X」の形に重ね合わせたものだ。これは「鷹羽郡」という地名に関係があるのだろう。

宮内庁 天皇系図 (年代は在位期間)

神武天皇 崇神天皇 (日本武尊) 仲哀天皇 推古天皇
初代 第10代 第14代 第33代
前660~585 前97~30 192~200 592~628

補足01 弥生人
在来系弥生人とは=以前より日本列島に定住していた縄文人の事。
渡来系弥生人=ほとんどは昔朝鮮半島に渡った縄文人(つまり日本人)。
と考える人もいる

補足02 伊勢神宮と大和神社オオヤマトジンジャ
『日本書紀』の崇神天皇6年の条に崇神天皇の時代 「疫病を鎮めるべく、従来宮中に祀られていた天照大神と倭大国魂神やまとのおおくにたまのかみ天原あまのはらを治め、代々の天皇は葦原中国あしはらなかつくに(日本の別名)の諸神を治め、倭大国魂神は地主の神(地方神)を治めることになっていたが、二神が同じ宮中に並べて祀られるのは神霊が強すぎる。そのため疫病がはやり国が治まらないのではないか。よって別々に祀ろうということになった。

補足03 阿加流比売神アカルヒメノカミのはなし
『古事記』では応神天皇記に次の記述がある。*応神天皇は崇神天皇の5代後

昔、新羅の阿具奴摩アグヌマ(阿具沼)という沼で女が昼寝をしていると、その陰部に日の光が虹のようになって当たった。すると女はたちまち娠んで、赤い玉を産んだ。その様子を見ていた男は乞い願ってその玉を貰い受け、肌身離さず持ち歩いていた。ある日、男が牛で食べ物を山に運んでいる途中、天之日矛アメノヒボコと出会った。天之日矛は、男が牛を殺して食べるつもりだと勘違いして捕えて牢獄に入れようとした。男が釈明をしても天之日矛は許さなかったので、男はいつも持ち歩いていた赤い玉を差し出して、ようやく許してもらえた。天之日矛がその玉を持ち帰って床に置くと、玉は美しい娘になった。

天之日矛は娘を正妻とし、娘は毎日美味しい料理を出していた。しかし、ある日奢り高ぶった天之日矛が妻を罵ったので、親の国に帰ると言って小舟に乗って難波の津に逃げてきた。その娘は、難波の比売碁曾の社に鎮まる阿加流比売神であるという。

『日本書紀』では垂仁天皇紀に記述がある。*垂仁天皇は崇神天皇の次の代

都怒我阿羅斯等ツヌガアラシトは自分の牛に荷物を背負わせて田舎へ行ったが、牛が急にいなくなってしまった。足跡を追って村の中に入ると、その村の役人が、「この荷の内容からすると、この牛の持ち主はこの牛を食べようとしているのだろう」と言って食べてしまったという。都怒我阿羅斯等は牛の代償として、その村で神として祀られている白い石を譲り受けた。石を持ち帰って寝床に置くと、石は美しい娘になった。

都怒我阿羅斯等が喜んで娘と性交しようとしたが、目を離したすきに娘はいなくなってしまった。都怒我阿羅斯等の妻によれば、娘は東の方へ行ったという。娘は難波に至って比売語曾社ヒメコソシャの神となり、また、豊国の国前郡へ至って比売語曾社の神となり、二箇所で祀られているという。

*『日本書紀』第12代景行天皇12年(82)の記事に、豊前国の名がみえる。『豊後風土記』には、はじめ豊後国と合して豊国とよばれていたが、文武天皇(697~707)のとき、豊前・豊後2国に分離したとある。

『摂津国風土記』逸文にも阿加流比売神と思われる神についての記述がある。

応神天皇の時代、新羅にいた女神が夫から逃れて筑紫国の「伊波比イワイの比売島」に住んでいた。しかし、ここにいてはすぐに夫に見つかるだろうとその島を離れ、難波の島に至り、前に住んでいた島の名前をとって「比売島」と名附けた。

「豊国の比売語曾社」は、大分県姫島の比売碁曾社である。『豊前国風土記』逸文にも、新羅国の神が来て河原に住んだので鹿春神というとある。

補足04 鹿春郷

豊前国風土記(逸文 宇佐宮託宣集)
豊前國風土記曰 田河郡 鹿春郷在郡東北 此郷之中有河 年魚在之
其源従郡東北杉坂山出 直指正西流下 湊會眞漏川焉
此河瀬清浄 因號清河原村 今謂鹿春郷訛也
昔者 新羅國神 自度到來 住此河原 便即 名曰鹿春神
又 郷北有峯 頂有沼周卅六歩許 黄楊樹生 兼有龍骨
第二峯有銅并黄楊龍骨等
第三峯有龍骨。

豊前國風土記にいわく。田河ノ郡 河原の郷郡の東北にあり 此の郷の中に河あり 鮎あり。
その源は、郡の東北のかた、杉坂山より出でて、直ぐに、ま西を指して流れ下りて、眞漏川につどい会えり。
この河の瀬、清し。因りて清河原の村となづけき。今、鹿春の郷というは、よこなまれるなり。
昔、新羅の國の神、自ら渡り来たりて、この河原に住みき。すなわち、名づけて鹿春の神という。
又、郷の北に峯あり。頂きに沼あり。めぐり三十六歩ばかりなり。黄楊(つげ)の樹 生い、また、龍骨あり。
第二峯(つぎの峯)には、銅ならびに黄楊・龍骨などあり。
第三峯(その次の峯)には龍骨有り。

*この逸文について、ある人の見解 「新羅國神は、以下の理由で倭人です。」

逸文の原漢文「昔者 新羅國神 自度到來 住此河原 便即 名曰鹿春神」を昔を「むかし」と読まずに「昔氏」と読む。昔(鵲)氏は、新羅の国王4代の昔脱解王(sok dalhe)が初代の昔氏系新羅王であり、駕洛國記にも記載がある。彼は、倭人との説がある。自度と子道は、韓音ではjadoで同音異字である。子道とは、「子の道として父母に仕える」ことである。と言うことは、jadoは、同音異字の「自度と子道」を同時に使用可能にした用語の選択で、新羅の國の神が、自ら渡って来た理由をも説明している。

「昔氏は、新羅国王なり、子道として父母に仕えるために自ら渡り帰り来たる。王は、原(始め)より此に住む、黄家の血筋なり。黄家は、即位を治める、名付けて曰く、鹿春の神と」。ここで、鹿とは帝位のことで、春の「わら」に「和羅=和の絹を着た皇族」を当てると「鹿和羅」となり、「鹿春」の本当の意味は、「和羅の帝」の意味であることを明らかにしている。昔氏は、歴代56代の新羅王の内、4代、9代、10代、11代、12代、14代、15代、及び16代の合計8人の王を輩出している。従って、新羅の神が自らわざわざ香春に来て住んだのではなく、香春出身の昔氏が新羅の王となって、自ら帰郷して親孝行をした事を述べており、初代の昔脱解sok dalheについては、三国史記や三国遺事に倭人説があり、それを裏付ける逸文の記述である。

私見:私は「昔」はやはり「むかし」だと思う。別の逸文にも「昔者」という表記がある。が、脱解尼師今ダッカイニシキンについてはかなり興味がある。補足05をご覧ください。

補足05 脱解尼師今は丹波から韓国へ渡り王になった

脱解尼師今ダッカイニシキン(タルヘ イサコミ)は、新羅の第4代の王(在位:57年 – 80年)で、姓はソク、名は脱解タルヘ

脱解が船で渡来した人物であることを示す挿話などと併せて、出生地を日本列島内に所在すると見る向きが多く、丹波国、但馬国、肥後国玉名郡、周防国佐波郡などに比定する説があり、上垣外憲一は、神話である以上、他系統の伝承が混ざっているだろうと述べた上で、脱解は丹波国で玉作りをしていた王で、交易ルートを経て新羅にたどり着いたというのが脱解神話の骨子であるとし、神話の詳細な虚実は措くとしても、昔氏は倭国と交易していた氏族だと推測できるとした。

このほかに 『三国遺事』の龍城国をアイヌの部族国家とするアイヌ系説もある

補足06 いつから大陸へ朝貢していたのか 帥升スイショウ

『後漢書』「巻五」の「安帝紀」(「孝安帝紀第五」)及び「巻八十五」の「東夷伝」(「列伝第七十五」)*帥升は日本史上、外国史書に初めて名を残した人物

安帝永初元年 冬十月倭國遣使奉獻(本紀)安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見(列伝)

安帝の永初元年(107年)冬十月、倭国が使いを遣わして貢献した。(本紀)安帝の永初元年、倭国王帥升等が生口160人を献じ、謁見を請うた。(列伝)

補足07 許黄玉 紀元前後あらゆる国の人々が往来していた

許 黄玉キョコウギョク(허황옥、32年 – 189年)は、金官伽倻キンカンカヤの始祖首露王の妃。金官伽倻の第2代の王居登王キョトウオウを生む。

許黄玉はインドのサータヴァーハナ朝の王女で、インドから船に乗って48年に伽耶に渡来し、首露王と出会い、その時にインドから持って来た石塔と鉄物を奉納した。許氏は首露王との間に10人の息子をもうけたが、そのうち2人に許姓を与え、それが金海許氏の起源とされる。

2004年の学会発表によると、許氏の「インド渡来説」には遺伝学的根拠がある。金海にある古墳の、許氏の子孫と推定される遺骨を分析した結果、ミトコンドリアDNAは(韓民族のルーツである)モンゴル北方系ではなくインド南方系の特徴を備えていた。

2012年11月22日

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香春神社周辺 其の一

 ある日、香春町かわらまちからトンネルを抜けて行橋へ向かった。トンネルの名は「新仲哀隧道」だった。仲哀天皇ゆかりの古道なのか?

 「仲哀天皇が熊襲征伐の折、この峠を通られたことに由来する。隧道が開削された谷には仲哀天皇腰掛岩など、 仲哀天皇にまつわる伝説があったのにちなみ仲哀隧道、取り付け道路の峠道は仲哀峠と命名された。」ということだった。

 仲哀天皇の父は日本武尊神やまとたけるのみこと、皇后は神功皇后。熊襲討伐のため皇后とともに筑紫に赴き、宇佐八幡で神懸りした皇后から「新羅を授ける」という託宣を受けた。この託宣に構わず熊襲を攻めたものの敗走。翌年橿日宮かしいのみや(香椎宮)で急死し、神の怒りに触れたと見なされた。熊襲征伐の途中で矢に当たったともある。

 このトンネルの西側に香春岳がある。この辺りは古代朝鮮半島の人が住みつき、銅を採掘、精錬していたところだ。宇佐八幡の銅鏡や東大寺の大仏の銅もここで精錬されたものだ。「採銅所」という地名はいつの時代につけられたのだろうか。

 今は石灰岩が削り取られ、一の岳の山頂は真っ平らになっている。標高は492mから270mになっている。

 国道201号線をはさんでセメント工場がある。一の岳から太いパイプが国道を跨いで工場まで伸びている。 このセメント工場(浅野セメント 日本セメント を経て 香春太平洋セメント)を見るたびに子供たちと「ラピュタの工場みたいだね」と話したこともあった。

*追加情報:太平洋セメント瓦工場は2004(平成16)年、セメント需要の低迷により解散。セメント生産は終了しているが、一ノ岳の香春鉱山で石灰石採掘は続いており、鉱山部門は新会社によって継続されているため、閉鎖はされていない。

香春岳 手前から一の岳、二の岳、三の岳
香春岳と太平洋セメント工場をつなぐ大きなパイプ 国道の上を横切っている