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算数いろいろ 律令と口分田

↑万葉集西本願寺 貧窮問答歌(山上憶良)

 大宝律令は701年に制定された日本の法律です。

 律は刑法、令はそれ以外の法律のことです。大宝律令は日本で初めて律と令がそろった法律です。これ以前にも「近江令」や「飛鳥(あすか)(きよ)御原令(みはらりょう)」という法律がありましたが、中央集権国家の国造りの集大成としてこの「大宝律令」が制定されました。その後改正されて「養老律令」が制定されるのが757年です。この「養老律令」はほとんど形ばかりのものになりますが、実際は明治維新まで廃止されることなく存続しました。

 この「養老律令」には田令という法律があり、口分田についての決まりがあります。

 口分田といえば646年の「班田収授法(はんでんしゅうじゅほう)」を浮かべる人も多いと思いますが、本格的に成立したのは「飛鳥浄御原令」からです。口分田をきちんと民に配分するには、きちんとした戸籍が必要だったので、法律ができてから戸籍を作るまでに時間がかかったわけです。6年に1度戸籍調査が行われ(今でいう国勢調査)、それによって班田収授が行われました。

 養老律令の田令では次のように決められています。

・良民男子は2段、良民女子は男の3分の2、5歳以下には支給しない。

・家人・私有の奴婢は良民男女の3分の1 *奴は男の召使、婢は女の召使

・兵士に取られた男分は無税になるので計算に加えない

 さて、この「段」とはどれくらいの広さでしょう。現在では「反」と書いていますが、土地の面積の単位です。

1()(坪)=3.305㎡=畳2畳分の広さ

1(たん)(反)=太閤検地までは360歩=1,188㎡/太閤検地後は300歩=992㎡

 古代では米1(こく)の収穫があげられる田の面積を1段としていました。米1石とはだいたい大人一人の1年間分のお米の量でした。1升ビン100本分です。重さでいうと150㎏です。

 太閤検地で1段の広さが360歩から300歩に変わったのは、コメの収穫量が上がったので、300歩でも1石の収穫を上げることができるようになったからという説と、年貢の増収のためともいわれています。

 話を戻しますが、良民は2年分のお米がとれる田を与えられ、私有の召使は半年分くらいのお米がとれる田を与えられたということになります。収穫は土地によって違ったでしょうし、天候にも左右されますが、古代の法律も、定義された算出方法を使って成り立っていたということですね。

 ちなみに長浜市には「口分田町」、東京には「五反田」、嘉麻市には「一丁五反」という地名があります。

 日本史の問題をひとつ 1段=360歩として計算します。

A 戸主39歳
B 戸主の父65歳
C 戸主の母64歳
D 戸主の妻37歳
E 長男17歳
F 長女15歳
G 次男10歳
H 次女5歳

【1】この戸の口分田の合計は何段?

【2】この戸の租の総額は?
(1束=10把/租は田1段(公定収穫量72束)につき2束2把とします)*租(田租)は田の面積に応じて課される土地税のこと

【3】この戸の庸の総額(麻布二丈6尺)歳役の総日数

【4】この戸の調の総額(麻布二丈6尺を選択)

解答

A(正丁)、B(次丁/老丁)、C(老女)、D(丁女)、E(中男/少丁)、F(小女)、G(小子)、H(小女)

【1】ABEGは各2段。CDFは各1段と120歩。

 2(段)×4+(1段と120歩)×3=8+4=12段

【2】租の総額(1束=10把)

 租は田1段(公定収穫量72束)につき2束2把。

 (2束2把)×12(段)=24束24把=26束2把

【3】庸の総額、歳役の総日数

 歳役10日の代わりに出す庸(布)は、正丁が2丈6尺、次丁は正丁の2分の1。ABが対象。

 庸(布):A(麻布2丈6尺)+B(1丈3尺)=3丈9尺。

 歳役ならば:正丁(A)10日、次丁(B)5日。

【4】調の総額(麻布2丈6尺)

 正丁・次丁(正丁の2分の1)・中男(正丁の4分の1)。ABEが対象。

 A(2丈6尺)+B(1丈3尺)+E(6尺5寸)=4丈5尺5寸

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しまじろうの日常 忘れ物 2021/08/09

舌をしまい忘れた。恥ずかしい。

2021/08/09しまじろう1

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香春神社周辺 その八

天之日矛 と 都怒我阿羅斯等 と 赤留比売

 『摂津国風土記』逸文(『萬葉集註釈』所引)によると、応神天皇の時に新羅国の女神が夫のもとを逃れ、筑紫国の「伊波比乃比売島」に住んだ(大分県の姫島か)。しかしこの島はまだ新羅から遠くないため男がやって来るだろうと、さらに摂津国の比売島松原に移った。そしてその地名「比売島」は元の島の名を取ったことに由来する、という。 

 『古事記』では応神天皇記に次の記述がある。
 昔、新羅のアグヌマ(阿具奴摩、阿具沼)という沼で女が昼寝をしていると、その陰部に日の光が虹のようになって当たった。すると女はたちまち娠んで、赤い玉を産んだ。その様子を見ていた男は乞い願ってその玉を貰い受け、肌身離さず持ち歩いていた。ある日、男が牛で食べ物を山に運んでいる途中、天之日矛と出会った。天之日矛は、男が牛を殺して食べるつもりだと勘違いして捕えて牢獄に入れようとした。男が釈明をしても天之日矛は許さなかったので、男はいつも持ち歩いていた赤い玉を差し出して、ようやく許してもらえた。天之日矛がその玉を持ち帰って床に置くと、玉は美しい娘になった。
 天之日矛は娘を正妻とし、娘は毎日美味しい料理を出していた。しかし、ある日奢り高ぶった天之日矛が妻を罵ったので、親の国に帰ると言って小舟に乗って難波の津に逃げてきた。その娘は、難波の比売碁曾の社に鎮まる阿加流比売神であるという。

『日本書紀』では垂仁天皇紀に次の記述がある。(垂仁天皇は応神天皇の子、神功皇后の孫)
 都怒我阿羅斯等は自分の牛に荷物を背負わせて田舎へ行ったが、牛が急にいなくなってしまった。足跡を追って村の中に入ると、その村の役人が、「この荷の内容からすると、この牛の持ち主はこの牛を食べようとしているのだろう」と言って食べてしまったという。都怒我阿羅斯等は牛の代償として、その村で神として祀られている白い石を譲り受けた。石を持ち帰って寝床に置くと、石は美しい娘になった。都怒我阿羅斯等が喜んで娘と性交しようとしたが、目を離したすきに娘はいなくなってしまった。都怒我阿羅斯等の妻によれば、娘は東の方へ行ったという。娘は難波に至って比売語曾社の神となり、また、豊国の国前郡へ至って比売語曾社の神となり、二箇所で祀られているという。

 また、『日本書紀』では次の記述もある。
 崇神天皇の時、額に角の生えた都怒我阿羅斯等が船で穴門から出雲国を経て笥飯浦に来着したという。そしてこれが「角鹿(つぬが)」の語源であるとしている(角鹿からのちに敦賀に転訛)。また垂仁天皇の時の帰国の際、天皇は阿羅斯等に崇神天皇の諱(御間城<みまき>天皇)の「みまき」を国名にするよう詔した(任那(弥摩那)の語源)。その時に阿羅斯等に下賜した赤絹を新羅が奪ったといい、これが新羅と任那の争いの始まりであるとする 

 仲哀天皇と神功皇后は初めに角鹿(つぬが)の笥飯宮(けひのみや)を宮としていた。

 『豊前国風土記』逸文(『宇佐宮託宣集』所引)では、新羅国の神がやって来て田河郡鹿春郷の付近に住み「鹿春の神(かはるのかみ/かわらのかみ)」と称されたとする伝承を記す(香春神社)。

 豊前国風土記・逸文に、「田川郡・鏡山。昔、息長足姫命が此の山に登られ、新羅征討の成功を祈って鏡を安置された。その鏡が化して石となり現に山の中にある。それで鏡山という」との一文がある。
 熊襲征伐行軍の際この地を通過したという伝承があり、トンネルには「仲哀」の名がつけられている。

 香春社縁起では
 「新羅神は比売許曽(ひめこそ)の神(赤留比売(あかるひめ))の垂迹(すいじゃく)で、摂津国東生り郡・比売許曽神社と同体也」とある。アカルヒメとは日光に感じて成り出でた赤玉から生まれ、新羅の王子・天日鉾(あめのひほこ)の妻となるが、日鉾の横暴から逃れて渡来し、一旦筑紫に留まり、最終的に難波に祀られたという。
  (赤留比売 については「其の弐」でも書いているので重複している。)

 「豊比咩命」と、神代に唐土の経営に渡らせ給比、崇神天皇の御代に帰座したという「辛国息長大姫大目命」はどちらも帰化人が祀る神だったと思われる。
  辛国息長大姫大目命 は 赤留比売 ではないか?では 豊比咩命 は?

 香春神社の第一の神は高句麗系渡来人( 日置絢子) が香春の阿曽(あそ)(くま)の森に祀った神だった。沖縄や奄美の御嶽のような森が阿曽(あそ)(くま)社だったのだろうと思う。(ちょっと 新羅のアグヌマに似ていると思った。) この神はきっと火をつかさどる神だっただろう。

 その後、香春に移り住んだ 新羅からの渡来人の神は 赤留比売(あかるひめ)= 辛国息長大姫大目命 で、彼らはこの地に秦王国を作り、やがて勢力を広げながら各地へ技術や文化を広めていく。その中の一つの集団が宇佐へとたどり着き、八幡神を祀るようになる。この秦氏系の集団が「辛嶋氏」だ。

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香春神社周辺 その七

香春神社の歴史を簡単にまとめてみる。

① 新羅の神(豊比咩命とよひめのみこと)が日置絢子によって、三ノ岳ふもとの阿曽(あそ)(くま)に祀られる。
 香春神社解文(弘安10年1287成立)
 「日置絢子が採銅所内にある阿曽(あそ)(くま)を崇拝し奉る。降って元明天皇御宇・和銅2年 (709) 、『新宮』に勧請し奉る。是香春也。本新両社と号す」

② 709年 豊比咩命神社の本社として古宮八幡神社が三ノ岳ふもとに創祀される。阿曽(あそ)(くま)社を元宮とする。
 古宮八幡神社累縁起
 「古宮八幡神社は平安時代にできた「延喜式」の「神名」に挙げられている豊比咩命神社の本社でありその最初の鎮座地は香春三ノ岳の麓、阿曽(あそ)(くま)という所である。
 創祀は元明天皇・和銅2年(709)今より実に壱千弐百八拾余年の古社である。」

③ 709年 第一岳麓に香春神社社殿が建立され、息長大姫尊、忍骨命、豊比咩命の三柱を合祀。
 香春神社縁起(成立年代不明)
 「元明天皇・和銅2年(709)第一岳麓に社殿建立。三社の神(現祭神と同じ)を併せ祀り奉り『新宮』という」なお、「息長大姫尊は神代に唐国(韓国・新羅)経営に渡らせ給い、崇神天皇の御宇、本郷に帰り給い第一岳に鎮まり給う。忍骨命は天津日大御神(アマテラス)の御子で、(あら)(たま)は南山に和魂(にぎたま)は第二岳に鎮まり給う。豊比咩命は第三岳に鎮まり給う。三神3峰に鎮座し“香春三所大明神”と崇め奉る」

 香春神社古縁起(太宰管内志所載、成立年代不明)
 「第一殿は大目命、第二殿は忍骨命、第三殿は空殿なり」
 第三殿空殿の理由として、
 「第三殿は豊比咩命の御殿だが、豊比咩命は祭の時のみ新宮に留まり、祭が終わると採銅所に帰られるから“空殿”という」との注記あり。

いろいろな疑問

 (1) 「阿曽(あそ)(くま)」とは?
 「日置絢子」とは高句麗系渡来人「日置(へき)(うじ)」だろうか?
 「・・・また日置一族は砂鉄の生産地に多く分布し(肥後菊池川,出雲国飯石郡),さらに土器生産にも当たったと考えられ,また日置氏は土師氏系とされ菅原朝臣を賜姓されている」(《三代実録》)。
 香春に定住したのは百済を経由して渡来した弓月君(秦の始皇帝3世直系)と120県の人民「秦氏」だと思っていた。

 (2) 古宮八幡神社累縁起と香春神社縁起では創祀の年が同じ?

 (3)  豊比咩命 と 辛国息長大姫大目命 は?

 香春神社の社前には「辛国息長大姫大目命は神代に唐土の経営に渡らせ給比、崇神天皇の御代に帰座せられ、豊前国鷹羽郡鹿原郷の第一の岳に鎮まり給ひ」とある。
 “息長”とは息長帯比売(オキナガタラシヒメ)(神功皇后)のことか?
 仲哀天皇の九州熊襲征伐に随伴し、仲哀天皇が崩御後に熊襲征伐を達成。新羅、百済、高麗を服属させたといわれている神功皇后のことだろうか。
 「崇神天皇の御代」とは3世紀後半。
 神功皇后の息子で実在性の高い天皇と思われる応神天皇の在位は4世紀後半から5世紀にかけて。
 神功皇后は実在性が疑われている。 辛国息長大姫大目命 =神功皇后?
 気になるのは神功皇后(息長帯比売)の母方をたどると新羅の王子・日鉾(天之日矛)に連なるとの伝承があること。

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雲の名前 積雲 2021/08/01

積雲(せきうん)
 よく見る ぽこぽこ浮かんでいる雲。わたぐもと呼んでます。
 地面が太陽で温められると上昇気流ができます。上昇気流がある温度になると冷えて雲になります。その高さを対流凝結高度といいます。 対流凝結高度から上に雲ができるので、雲の下のラインが横一直線にそろっています。
 奥の方の雲は山並(三郡山系)に沿って並んでいます。
 手前にポツンとひとつ 雲が浮かんでいます。

 どんどん上に成長すると雄大積雲という雲になります。てっぺんがつるつる頭で丸い入道雲です。

 積乱雲のことをよく「入道雲」と言いますが、積乱雲は高度1万メートルくらいまで成長して、てっぺんが横に広がっていく(かなとこ雲)ので、もう入道ではなくなってしまいます。そして雷が発生します。てっぺんには少し毛が生えたようになっています。
 さらに成層圏へはいることをオーバーシュートといって、もこっと小さなたんこぶができます。

積雲から積乱雲

 積雲
 ➡ 雄大積雲(入道雲)
 ➡ 積乱雲(頭がぺったんこでちょっと毛が生える)
 ➡ オーバーシュート(たんこぶができる)

⇐ 朝焼け
 雲も名前 積雲と高積雲 ⇒

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朝焼け 2021/07/22

 梅雨が明けて、毎日朝焼けが綺麗です。

 朝焼けは夕焼けと同じ、波長の長い赤い光が散乱せずに届くので赤く見えます。

 ピンク→オレンジ→黄色と変われば晴れになります。

 (朝焼けを見ると「ミラーマン」の主題歌を口ずさんでしまう。)

⬅️ タマムシ 2021/07/19
   雲の名前 積雲 2021/08/01 ➡

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タマムシ 2021/07/19

 今日何十年ぶりかでタマムシを見つけた。

 子供の頃の夏、探したのは、クワガタ カブトムシ センチコガネ ハンミョウ そしてタマムシだった。

⬅️ カンナ 2021/07/13

  朝焼け 2021/07/22 ➡️

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カンナ 2021/07/13

田植え その後1ヶ月たち カンナの花が咲きました。

子供の頃 夏の花は ヒマワリ アサガオ カンナ グラジオラス ホウセンカだった。

⬅️ ストームグラス 2021/07/10

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